フリーエリア

検索フォーム

QRコード

QR

Web page translation





地図を見ると、青森県は3つの部分からなることが分かる。青森市、弘前市の位置する県の南部地帯、ここは本州の北端に位置する。その北に二つの半島、西側に津軽半島、東側に下北半島がある。

この二つの半島は、地形的にも社会的にも大きな違いを宿している。津軽半島には、何か歴史をもった情緒豊かさを感じる。蟹田、三厩(みんまや)、五所川原、金木、さらに中泊からバスに乗ると小一時間で小さな漁港・小泊に着く。竜飛岬はすぐ先にある。筆者はこの漁港の旅館に泊まり、地元の人々の温かいもてなしを受け、人々と交流の機会を得たことがある。幕末、長州の吉田松陰がロシアの監視のためこの地に視察に来た話しを、当地の郷土史家から聞いた。また、太宰治が戦中に書いた旅行記(帰郷記)である「津軽」の舞台がこの西側の半島だ。

一方、下北半島は、なんというか、農業がないせいか、忘れられた地の感じがする。自然も、北の端の恐山を除けば、ほとんど起伏のない平地だ。過去にさかのぼらないとすると、ここは今、若狭湾に匹敵する原子力施設の中心地になっている。六か所村核貯蔵施設、東通原発、大間原発、などなど。

青森県は、その地方行政の在り方がおかしい。県は、原子力施設を誘致する際に、人口密度の希薄なこの下北半島にそれらを集中したとしか考えられない。原発事故が発生したとしても、津軽半島、青森市には及ばないと考えたのだろうか。全くばかげているとしか、いいようがない。

福島原発事故後、県の行政、県民は原子力施設の現状をどう考えているのだろうか。それでも、一時中止していた大間原発の建設を再開させた。地元への補助金確保のためにはやむを得ない、というのだろか。

1年ほど前、下北の大湊市を旅したことがある。恐山の入り口にある。大きな町ではない。そこで宿をとろうしたが、どこのホテルも満室で空き室はないと言われた。民宿も探したが、ここも満室状態だった。仕方なく、ホテルの宴会場の付属部屋(酔客の寝間)に泊まった。ホテルの人に、祭りでもあるのか?と聞いたが、口を濁していた。

理由は、翌日分かった。大間原発建設の基地がここ大湊なのだ。建設下請け企業の労働者(職人)が大挙して、この町に泊まっているとのことだった。長期の滞在だろう。朝食をとりながら、そういう業者の一人と話をした。下請け業者の大半は、関西、中部からここ下北に来るとのことで、青森県の業者(労働者)は少ないだろうという。つまり、地元の経済のためには原発やむなしといっても、補助金が落ちるだけで、建設の仕事はほとんど県外の事業所が請け負うのであって、地域経済への寄与はまずないだろう。

「大間」からは、大型トラック用の連絡船が北海道の函館へ通っている。大間原発は、青森市からちょっと距離があるといっても、北海道の函館とは目と鼻の先だ。この「大間原発」の建設再開に関して、函館市は大いに憤りを感じているのだ。函館から見た「大間原発」を新聞記事から拾ってみた。また、東京新聞の【こちら特報部】からの引用である。



>>
東京新聞2014年2月24日 

「大間」差し止め:函館市長に聞く
■30キロ圏でも何も言えず ■事故前の基準で許可 ■フルMOX「危険だけ負わされる」

電源開発(Jパワー)大間原発(青森県大間町)の建設差し止めなどを求め、北海道函館市がJパワーと国に対し、訴訟を起こす。自治体が原告となる原発差し止め訴訟は全国初だ。異例の訴訟は、他の原発周辺自治体に波及する可能性もはらむ。工藤寿樹市長は「住民と街を守る責任がある」と話す。 (荒井六貴)

「天気の良い日は、対岸にある大間原発を見ることができる。不安は大きい。国が相手だろうが、黙っていられない」。工藤市長は力を込める。

大間原発は国策会社として設立されたJパワーが、大間町の津軽海峡に面した場所に建設している。出力は百三十八万kw。2008年5月に着工したが、11年3月の東京電力福島第一原発事故の影響で、いったん工事は中断。12年10月に工事を再開している。

函館市の人口は二十七万人。最短の地点で二十三キロ。いったん事故が起きれば、大きな被害が及ぶ。五十キロ圏内の人口は、青森県の約九万人に対し、北海道内は三十七万人にも上る。

市は裁判で、Jパワーに対し、建設と運転の差し止めを求め、国に対しては、原子炉設置許可処分の無効確認などを要求する。

函館市は原発事故の防災重点地域である三十キロ圏内の緊急防護措置地域(UPZ)にある。それにもかかわらず、原発建設や稼働の同意手続きの関与できない。電力会社と締結する原子力安全協定などの対象は、都道府県や立地自治体に限られている。

国は、三十キロ圏内の自治体に地域防災計画の策定を求めているのに、建設の同意は求めていない。工藤市長は「原発の危険にさらしておいて、発言権はまったくない。説明会を何回も要求しているのに、応じてもらえない。この理不尽さを訴えていく。言うべきことを言わなと、なし崩し的に造られてえしまう」と語気を強める。

工藤市長は福島原発事故直後の11年4月に初当選。大間原発の建設を無期限凍結するよう求める要望書を政府に提出するなどっしてきたが、政府から具体的な対応策が示されることはなく、一方的に建設再開が容認されてしまったという。「再三再四、建設の凍結を求めてきたが、聞き入れられなかった。訴訟を起こすしか手段はない」と強調した。

大間原発の国による原子炉設置許可が、福島原発事故の前の旧審査基準によって出されていることも問題視し、その違法性を主張する。「原発事故前のkっかげんな審査指針で、許可が出されている。それに基づいて工事も再開している。そんな許可は無効だ」

大間原発が、使用済み核燃慮から取り出したプルトニウムとウランを混ぜた混成酸化物(MOX)燃料を100%使用する世界初のフルMOX原発であることも、大きな不安要因だ。核燃料サイクルでできるプルトニウムを使用するプルサーマル計画を推進する手段として位置づけられている。だが、専門家の間では、毒性の強いプルトニウムを使うフルMOX原発の安全性を疑う意見が強い。

工藤市長は「津軽海峡は国際海峡で、ほかの地域と比べ、外国のゲリラ船も入りやすい。世界一危ないフルMOXで、世界一テロに弱い原発ができあがることになる」と危機感を募らせる。
<<

(デスクメモ)
大間原発が建設されている青森県の下北半島には、使用済み核燃慮の再処理工場など核燃料サイクルの重要施設も多数立地している。大間原発が完成しないと、核燃サイクル計画は頓挫してしまう。すると、原発は立ちゆかなくなる。だから、安倍政権は稼働に執念を燃やす。事故の被害など考えていない。(国)

(筆者メモ)
「プルサーマル」とは、プルトニウム・サーマルニュートロン・リアクター(プルトニウム使用熱中性子炉)の短縮単語である。Plutonium Thermalなどと表記するが、完全な和製単語である。
このプルサーマルは以前から計画されていたとはいえ、その本格実施方針は1994年の「原子力開発利用長期計画」による。90年代後半から、具体的な実施計画が立てられ、2000年代に入り、日本全国の原発でMOX燃料使用の準備が始まり、すでにいくつかの原発で使用が開始されていた。そして、2010年末までに全国レベルでMOX燃料使用の準備が整っていた。ところが、2011年3月11日の福島原発事故で全てのプルサーマル計画は停止状態に入った。
この状況の中で、大間原発建設が置かれている状況は、停止状態のプルサーマル計画全体の「再稼働」への試金石とされていることである。(紺)





スポンサーサイト

 2014_02_26




■迷宮に落ちていく
東日本大震災・福島原発事故は、根本的にも応急措置的にも解決に向かって進んではいない。新たな迷路に迷い込みつつあるようだ。あれから3年過ぎているのだが。

津波に襲われた三陸海岸地方は、現地を訪ねればわかることだが、整地はされたがこれからどうしようという状況だ。遅々として復興が進んでいない。それでも、いくつかの中小業者の復興支援や防潮堤建設計画など、いい悪いは別として復興に向けた計画が動き始めているのは確かだ。外に向かって発信されているほどには力強さが感じられない。なぜだろうか?

一方、「福島」は全く先が見えない迷宮に落ち込んでいるといってよい。3年前の事故当時、東アジア全域が「終末的世界」に覆われる恐れがあった。しかし、それは、だれかが言ったように「神の采配」によっていくらか横道にそれることができた。それは、放出された放射能のかなりの量が、海に向かって流れたことによるものだ。

ところが、爆発現場の処理は、全く先が見えない対処療法が続いているし、それも程なく限界にぶち当たることは明らかで、あとは時間の問題だ。終息などは程遠い。さらに、多くの避難民の生活は放置され、流浪の民のような状況に置かれている。若者の内には新天地で自立した者もいるだろうが、多くの壮年・老齢な者にとって、避難生活は限界にさしかかって久しい。

一度去ったかに見えた「終末的世界」が、再び福島を襲おうとしている。この事態を招いた根本的原因は、すでに周知のように、事故当時の決定的な政策ミス、その後の恥知らずな政治的うそ、情報隠しと情報捏造、などであったことは明らかであろう。そのことが、今頃になって暴き出されつつある。その責任者を告発し、処罰することを避けるべきではない。頭を下げて謝って済まされる問題ではないからだ。

確かに事故当時(民主党菅政権当時)、常軌を逸した理性の混乱がまかり通っていたが、今もそれがまかり通っている。日本の官僚政治と御用マスコミの罪深いところは、そのことすら覆い隠そう、忘れさせようとしていることである。多くの国民はその仮想バリアーに侵されていて、現実が見えていない。

東京都知事の「脱原発候補」の敗退にあってみると、多くの人々が、この仮想のバリアーに侵され、東北の現実を気に懸けなくなっているように見える。福島原発事故はその本質が、東京都民の自作自演であったことが見えていないのだ。そこに、大きな落胆の原因がある。したがって、反原発側からの体制の立て直しは容易なことではないと知れよう。

■地方紙に希望が見える
福島原発事故が突きつけた原発問題は、確かに、その廃炉にしろ避難民救済にしろ、その根本的決着は政治決断によらざるを得ない。もっとも、現自民党政権下では、その決断を期待することは不可能だろう。ここに既成マスコミの使命があるはずだが、御用マスコミに脱した現在のマスコミにそれもまた期待できそうにない。リベラル派は、困難を承知の上で、御用マスコミの向こうを張った物理的報道機関の構築に乗り出さなければならないだろう。その方法はいくつかある。

しかし、福島(東北)が現在陥ろうとしている迷宮、その先に見え隠れする新たな「終末的世界」に対しては、特別の配慮が講じられなければならないはずだ。そこに、政権に頼らない市民の力が必要だ。「連帯」の真価が問われているのである。事故直後に、あれほど「連帯」を叫んでいたではないか。

東北の人々は心優しい。災害で身内を失っても、「私たちは幸せなほうです。遺体と対面できただけでも…」、やむを得ず仮設住宅を去っていく際にも、「まだ仮設にいる人たちを思うと、心苦しい」、東北の人はこういう言い方をする。よく「東北人のXXXX...」と揶揄されてきたものだ。しかし筆者は、この東北人の心象風景は、古く縄文時代,蝦夷の時代から培われたものだと思う。弥生人の渡来以前からこの大地に根付いた人々の心であり、遺伝子の深部に刷り込まれたものだ。「連帯」を叫ぶとは、なんと功利主義的かとさえ思う。東北との「連帯」を言あげするにしても、このことを日本人は肝に銘じるべきだろう。

このような現状を理解するうえで大きな役割を果たしているし、さらに大きな役割が期待されるのが、関東・東北地方の地方紙だ。これらは、被災地を地道に訪問し、現場の情報を伝え続けている。

■三社共同企画「記者たちの3年」
東日本大震災から間もなく三年を迎えるのを前に、東京新聞は、河北新報(仙台市)、福島民報(福島市)との共同企画「記者たちの3年」をきょう(2月17日)から4面で始めます。それぞれの地域で密着取材している地元紙の記者を通じて被災者の生の声を届けたいと考えたからです。拠点を異にする新聞社三社の共同企画は珍しい試みです。被災地には風化と風評という「二つの風」が吹いているといいます。二つの風に抗い、震災取材を続ける記者たちの報告を届けます。(東京新聞 企画案内より)

以下は、その共同企画のうち初回シリーズ「帰れない」(上)(中)(下)である。引用はすべて、「東京新聞」から。




>>
帰れない(上)
故郷は遠く 避難者苦悩 問い続ける「何ができるか」
◆福島民報 会津若松支社 柳沼郁(やぎぬまかおる)記者
 2014年2月17日

 東日本大震災と東京電力福島第一原発事故から二年ほど過ぎたころから、取材の際に控えるようになった質問がある。「町に戻りたいですか?」

 「戻りたいけど、戻れないんだよ。ばかなことを聞くな」。会津若松市の仮設住宅に暮らす大熊町の男性から罵声に近い言葉を浴びせられた。男性の自宅は福島第一原発から約三キロ。帰還困難区域内にあり、古里に帰る見通しは立たない。

 後日、男性から謝罪されたが、こちらも深々と頭を下げた。避難者の間には復旧・復興が遅々として進まない現状へのいら立ちと、国や東電への怒りや不満が渦巻いている。愚問を恥じた。同時に、やり場のない怒りを抱え、苦しみながら生きている避難者の胸の内が垣間見えた。

 震災と原発事故から間もない二〇一一年四月、本社報道部から会津若松支社報道部に異動した。日々の仕事に加え、会津若松市に役場機能を移した大熊町の取材が日常の一部になった。今も休日を除いてほぼ毎日、市内の仮設住宅に足を運んでいる。

 本紙の企画「避難先から」「避難者の声」で取材した大熊町民ら避難者は九十五人に上る。携帯電話には五十人以上の連絡先が登録してある。借り上げ住宅で暮らす人たちとも連絡を密にするよう心掛けている。

 杯を交わす間柄になった六十代の男性は「『避難者』と思われるのが怖い」と打ち明けた。飲食店でビール一杯頼んでも「賠償金で酒を飲みやがって」と見られているように感じる。「俺は原発事故に加担してしまったのか…」。原発建設の元作業員という職歴にも引け目がある。男性は仮設住宅でしか酒を飲まない。

 八十五歳の女性は「もうすぐ、そちらに向かいます」と、先立たれた夫の位牌(いはい)に毎晩手を合わせている。会津で最期を迎えようと決心したという。さまざまな境遇の人たちが温暖な古里から遠く離れた雪国・会津で生と死に懸命に向き合っている。

 町は「復興まちづくりビジョン」の中間報告を示した。本来の庁舎で役場機能を再開させるのは二〇一九年から二〇二三年の間で、東京五輪の開催時期と重なる。国民にとっては楽しみな六年間だが、早期帰還を望む町民には長すぎる。高齢者ならなおさらだ。

 「戻りたいけど、戻れないんだよ」。大熊町の男性の言葉を思い出すたびに、地元紙の記者として何ができるのか自問自答を繰り返している。

メモ<福島県の避難者> 東日本大震災と東京電力福島第一原発事故に伴う避難者は12日現在、13万6832人。避難先は県内が8万8416人、県外が4万8364人、避難先不明が52人。震災後、役場機能を会津若松市に移した大熊町は全町民が避難生活を送っており、1月1日現在、会津若松市で2243人、いわき市で3894人が暮らしている。「帰還困難区域」の住民の割合は全町民の96%。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/tohokujisin/list/CK2014021702100005.html
<<


>>
帰れない(中)
復興新聞で心一つ願う 移転する人、残る人…思い複雑
◆河北新報釜石支局 玉応雅史 記者
 2014年2月18日

昨年十二月、一枚のはがきが河北新報社釜石支局(岩手県釜石市)に届いた。

差出人は取材で知り合った前川●一さん(78)。釜石市鵜住居(うのすまい)町の自宅を東日本大震災の津波で失い、市内の仮設住宅で暮らしていた。岩手県宮古市に住む娘夫婦宅のそばに新たに居を構え、妻(74)と二人で生活を始めた、と記されていた。

年が明けて前川さんに電話した。「まだ仮設にいる人たちを思うと、心苦しい」。故郷に背をむけたような後ろめたさを抱える前川さんの胸の内に触れ、(落ち着けてよかったですね)と軽々しく励ましたことを恥じた。

前川さんは釜石市で生まれた。最初は、四十五年住み慣れた鵜住居地区での自宅再建を考えたという。土地区画整理事業は昨年十一月、工事が本格的に始まった。住宅再建にはあと二―四年かかる。

「八十歳では自宅再建のめどが立たない。残りの人生を娘や孫のそばで暮すのがいいかも」。苦渋の決断だったようだ。

やむを得ず古里を離れる人がいる一方で、地元に踏みとどまり「いつかは戻って来て」と願う人達もいる。

住民団体「鵜住居復興まちづくり協議会」と「地権者連絡会」は昨年二月、「鵜住居復興新聞」を発刊した。復興事業の解説、提言、復活した祭りの紹介….。A4判十数ページの冊子には、鵜住居の「今」があるれる。今月発行された最新号は弟9号になった。

編集担当の佐々木一正(62)は「鵜住居の復興に向け住民の力を結集するには、情報の共有が欠かせない」と言う。佐々木さんも自宅を失い、みなし仮設で暮らす被災者の一人だ。

部数は約千六百部。岩手県内他市町村に避難する百二十三世帯、ほか移動から福岡まで他県へ行った四十四世帯を含む市内外の計約千世帯に郵送する。鵜住居の被災していない約六百世帯にも配布し、地域のつながりを保とうと懸命だ。

鵜住居二は、防災教育を受けた小中学生が率先して避難し助かった「奇跡」と、避難してきた多姓の住民が犠牲になった鵜住居地区防災センターの「悲劇」があった。

悲しみと称賛、怒り、悔しさ、後悔…。震災から三年になろうとする今も、光と影の複雑な思いが地域を覆う。そんな中、復興新聞は住民が心一つに、故郷の未来を築こうと前を向く意思の表れでもある。

「戻れないなら孫子の代でもいい。鵜住居を忘れないで」。新聞に込められた地元の人たちの願いが、届きますように。
<<


■鵜住居地区の「奇跡」と「悲劇」:これを特報したテレビ朝日の番組は、以下のYoutubeで見ることができます。
http://www.youtube.com/watch?v=ARv_4a_8FBA#t=95



>>
帰れない(下)
古里奪い心踏みにじる 避難者不在のままの再稼働
◆東京新聞さいたま支局 増田紗苗記者
 2014年2月19日

誰もいなくなった校舎に、冷たい北風が吹きつけていた。昨年十二月二十七日夜、埼玉県加須市の旧騎西高校。原発事故後、最も多い時で約千四百人の福島県双葉町民が身を寄せた避難所だ。この日、最後まで残っていた五人が退去した。

故郷から約二百キロ離れた埼玉へ。旧騎西高校での「集団疎開」覇2011年3月30日に始まり、町の役場機能も移ってきた。プライバシーがほぼない教室で複数の家族が暮らす生活だが、学校という場は故郷に代わるコミュニティーとしても機能していた。

町民たちは教室ごとに班長を決め、ゴミ出しや清掃を分担した。子供は近くの小中学校に通い、大人は不安を口にしながらも、励まし合った。校庭では夏祭りも開かれた。町民らがねじり鉢巻き姿で笛や太鼓を鳴らし、やぐらを囲んで「双葉音頭」を踊った。みんな晴れやかな顔だった。そこには「双葉町」があった。

一方、福島県内に仮設住宅が造られると、旧騎西高校を離れる町民が増えていった。昨年六月には町役場機能もいわき市に移転。町は同校を「長期生活する場所ではない」として、退去を求めた。昨年末に町民がいなくなった同校では、仮設風呂の解体工事などが進められている。

「町民の交流拠点がなくなってしまった」。家族三人で旧騎西高校から隣の羽生市に引っ越したひは柚原秀康さん(65)が嘆いた。柚原さんは今も二日に一度は同校に立ち寄る。「誰もいないのは解っている。でも誰か町民が来ていないかと、つい足を運んでしまう。今の住まいの近所の人たちは優しくしてくれるが、なかなかなじめない」。加須市内のアパートに移った男性(58)も「一人でいると不安になる」と漏らす。

約六千八百人の双葉町民は、今も三十九都道府県に散らばったままだ。埼玉県内には約九百人が暮らす。

町は「故郷への帰還」を最終目標に掲げて町民の心の結束を図ろうとしているが、「自分が生きているうちは戻れないだろう」と諦める声を、何人からも聞いた。

町の面積の96%は、年間被ばく放射線量が50msb.超の「期間困難区域」。町と国が昨年十月に行った調査で「将来の帰還の意向」を町民に尋ねたところ、八割が「現時点で戻らない」「現時点でまだ判断がつかない」と回答した。

町民の中には避難先で定職に就き、地域に根付こうと必死な人たちもいる。避難先で生まれた子もいる。いつか双葉町に住める日が来たとき、その子たちが「双葉で暮らしたい」と思うだろうか。

原発事故は郷土もコミュニティーも破壊した。古里を奪い、そこに住んでいた人々の心を踏みにじり、今も苦悩の日々を強いている。これほどの犠牲を払いながら原発の再稼働を認めることは、全国の原発避難者たちの存在を忘れ去ることにほかならない。
<<






 2014_02_21




Nuevo desarrollo de las políticas ambientales del Perú: la estrategia estatal para diversidad biológica y los nativos amazónicos

Claves: Convenio de Naciones Unidas sobre diversidad biológica, recursos naturales, estrategia estatal, territorio étnico para economía humana, recursos genéticos

KOBAYASHI, Yoshiki


RESUMEN
El objetivo de este informe se encuentra de brindarles un panorama de las políticas ambientales del Gobierno Peruano de Fujimori en últimos diez años de 1990 a 2000, y de analizar sus relaciones con los indígenas en la Amazonía Peruana. El informe contiene un resumen breve de serie de las políticas ambientales de los regímenes anteriores, el militarista y el democrático, y asimismo presenta debate internacional sobre términos y temas que se dirigieron a planificar y formar una estrategia estatal para la Diversidad Biológica en los años de noventas.

En la parte siguiente clarificaría y demostraría dos series de los aspectos distintos que se esconden dentro de un conjunto de las políticas ambientales de esta década. Para este fin principalmente concentrará a dos organismos recién creados: Instituto Nacional de Recursos Naturales – INRENA, y Consejo Nacional del Ambiente – CONAM. A través de cuyos análisis se clarificaría los conceptos tales como: lo estratégico del estado y el sistema administrativo tanto como la sostenibilidad y la interculturalidad. Además el informe documenta la situación actual de los nativos amazónicos, etc, hacia las políticas fundamentalmente procedidas por el INRENA. Es para considerar la base profunda de las políticas de Fujimori tanto como las reacciones conflictivas del lado de los nativos, referiéndose a nuestro punto de vista tales como la economía humana de los indígenas y el territorio étnico propio de ellos.

Al entrar en el nuevo milenio el Perú colinda con una fase nueva en torno a su estrategia para la diversidad biológica, o sea, ha llegado el tiempo cuando necesita confrontar en serio con el tema del acceso y distribución de beneficios en relación con los recursos genéticos. La parte final de este informe trata de este tema de los recursos genéticos que están considerado generalmente como propiedad estatal. Primeramente resume una realidad a que los países amazónicos, sobre todo, las naciones de Comunidad Andina se enfrentan en común, y consecutivamente examina una versión peruana de la propuesta de reglamento sobre acceso a los recursos genéticos; concluyendo que se verán muchas dificultades y cada vez más se profundizarán los problemáticos que ocurren como resultados de estas medidas para proteger los recursos genéticos.




Recent development of the Peruvian environmental policies: State Strategy for biological diversity and Amazonian natives

Keywords: United Nations convention on biological diversity, natural resources, state strategy, indigenous territory for livelihood, genetic resources

KOBAYASHI, Yoshiki


SUMMERY
The purpose of this report is to provide an overview of the environmental policies of the Peruvian Government of Fujimori in the last 10 years: 1990-2000, and to analyze their relationship with indigenous peoples in the Peruvian Amazon. The report contains a brief history of the environmental policies of the previous governments, the militarist and the democratic, along with international discussion of the terms and issues leading to the design and formation of the state strategy for Biological Diversity in the nineties.

In the following the report would clarify and demonstrate two sets of different aspects that are complicatedly concealed amid the body of environmental policies during this decade of Fujimoristas. For this purpose it will concentrate primarily on two newly established organizations: National Bureau of Natural Resources (Instituto Nacional de Recursos Naturales–INRENA), and National Board of Environment (Consejo Nacional del Ambiente–CONAM). Through these analyses we could see such sets of ideas: the state strategy and the administrative system as well as the sustainability and the interculturality. Furthermore, it documents the current situation of the Amazonian natives, etc. to the policies mainly proceeded by the INRENA. It is to consider the background idea of Fujimori’s environmental policies as well as the conflicting behaviors on the side of the natives, referring to the basic standpoints such as the livelihood of the indigenous peoples and ethnic territory they appropriate.

Entering in the new millennium Peru confronts a new dimension around its strategy for Biological Diversity, namely, the time has come when it is seriously needed to cope with the issue of the access and benefit-sharing as related to genetic resources. The final section of the report treats this issue of genetic resources that are widely taken as state property. It overviews the reality with which the Amazonian countries, above all, the nations of Andean Community face commonly, and continuously examines a Peruvian version of a legislative bill-plan on the conservation by the state of the genetic resources; concluding various difficulties and deepening problematic which are surely results of these political measures to protect the genetic resources.





ペルー環境政策の新展開
ー「生物多様性」国家戦略とアマゾンインディオ ー

(キーワード)
:国連生物多様性条約,自然資源,国家戦略,インディオ生活圏,遺伝子資源


小林 芳樹


はじめに
1.ペルー環境政策のフレームワーク
2.1990年以前の環境政策
3.1992年「地球サミット」のインパクト
4.農業省の組織改革と環境OPDの設立
5.PCM系環境機関CONAM
6.INRENAへの権限集中とその規制行政
6-a 学術調査の事例
6-b マデレーロの事例
6-c ナティーボの事例
7.「生物多様性」政策のゆくえ
おわりに





はじめに (1)

周知のように,現代社会が抱える解決の難しい問題の一つに環境問題がある.国際政治も今や環境問題を抜きには展開不可能であるといってよく,環境負荷要因の削減に向けて国内規制と国際協調に兼ね合いをつけることが,先進国では大きな問題となっている.この事態に対応するように,環境問題の研究は,世界的に見ても,またどの専門分野から見ても全般的に盛隆を極めているといってよいであろう.しかし一方で,ペルー現代社会の諸問題を扱う研究において,環境論的視点が,特に日本での研究においては,これまで省みられてこなかったのが現状である.範囲をラテンアメリカに広げても,環境問題を扱った日本の研究は多いとはいい難い.近年刊行されたものとしては水野一・西沢利栄『ラテンアメリカの環境と開発』[水野・西沢 1997]が唯一の労作であろう.しかし,この中にもペルーの環境問題を扱った研究は見あたらない.ペルー国内での環境論による研究文献も,行政機関の調査研究,NGOの現状報告などを除けば,学術的文献は決して多くはない.むしろ,ごく最近その活発化の兆しが見うけられるといった状況である (2).ペルー環境問題についてのこのような研究状況の背景には,様々なことがあると考えられうるが,主に次のような要因が潜んでいたと考えられる.

まず第1の要因として,次のことが挙げられる.元来,地球環境問題が俎上に登るようになった90年代以降,議論の中心は環境負荷要因の中心的排出国である先進国の当事者能力を問う形で進行した.これを環境問題の「先進国モデル」とするならば,後進国・中進国サイドは,このタイプの問題への取り組みに関して,決して無縁であるわけではないにもかかわらず,いわば意識の面で「待ち」の態勢に入ったといってよかろう.さらに,これらの諸国は,環境汚染をつねに貧困問題に絡ませて議論する思考様式 (3)を持つ一方で,自然資源保有国に位置している関係上,先進国では中心的課題なりにくい「生物多様性」保護がここでは大きく取り上げられることになる.これを環境問題の「後進国モデル」と呼ぶとすれば,ペルーの環境議論は,まさにこの「後進国モデル」に妥当することになる.このような意味で,ペルーでの環境問題は,日本での緊急を要する環境議論から大きくそれており,それだけ関心を呼び起こしにくかったといえるだろう.しかし,これはペルーだけのものではなく,ラテンアメリカ全般に共通した要因でもある.

第2の要因として,日本における今までの南米研究の動向に注目する必要がある.過去の研究動向をふり返ってみると,日本国内で,アンデス諸国に関する環境論的研究が少なかったわけでは決してない.John Murraの「垂直統御」論に触発されて,「多階層の生態利用」を自給自足原則とするアンデス的生活スタイルの事例を現代に発掘しようとする生態人類学あるいは社会人類学分野での研究が,かって,他国と同様に盛隆を極めていた.しかし,Murraがインカ時代の歴史的生活スタイルをモデル化していたことと関連して,現代の事例研究がMurraモデルに追従しようとするあまり,現代の社会的・技術的現実をかなり恣意的に捨象する傾向にあったことが,大きな問題であった (4).もちろん,Murraのlo andinoとは何かという問題提起が無用であったわけでは決してないであろう.問題なのは,かつての「垂直統御」に関する事例研究がレトロスペクティブな視点(あるいは原点回帰志向)に終始した点であり,歴史的経過を踏まえて現代から将来を見透すことのできるプロスペクティブな視点からの「垂直統御」論の研究は,十分可能であると考えられる.もちろん,まだ「垂直統御」論のプロスペクティブな方法は確立していないし,方法論的再検討が必要である.しかし,その間に,現象的には,人類学サイドからのアンデス環境論の研究が下火になってきて,環境論といえば,バリアーダ研究の一環として,後進国型都市の環境悪化を取りあがることが中心になってきた感がある.第3の要因として,近年,環境論の研究があまり進まないうちに,後進国型の環境問題の「現場」でフィールド・ワークを行うことがペルー国内で厳しく制限され始めた事情がさらに付け加わる.本稿で明らかにしていくように,シェーラ.セルバ,セーハ・デ・セルバの広範囲の地域が「生物多様性保護」の名の下に国立自然公園あるいはそれに準ずる自然保護区という形で国家によって囲い込まれ,その地域の立ち入りは,学術研究であれ何であれ,特に外国人に対して厳しく制限されることになったのである.それらの地域にはアマゾンインディオの居住域も含まれており,彼らの環境利用と生活スタイルのこれからの研究に大きな支障をきたすことが予想されている.つまり,ペルーでの環境問題の研究が文献研究に陥りやすい状況にあり,その分だけこの研究の魅力が減じ易いということである.

このような様々な制約がある状況の中で,本研究が目指す方向と本稿がカバーしうる範囲についてあらかじめ述べておこう.本研究は,アンデス東斜面に位置するセーハ・デ・セルバとアマゾン低地における現代の「環境と人間の経済」の在り方を取り扱う.Murraから始まるアンデス的自然環境とそこにおける人間の経済の関係をプロスペクティブな視点から捉え直し,アンデス・アマゾン両地域を取り結ぶ可能性を秘めた,より広域の妥当性をもつ環境文化システム系 (5)を追究したいと考えている.この課題に接近するためには,何よりもまず,両地域が置かれている政治的・社会的現状を分析する必要があろう.この政治的・社会的現状には極めて複雑な関係が絡み合っているが,いま戦略的に2の諸関係に,つまり国家と地域社会の関係,そして地域社会内部の関係に大別する方法をとる.そのうち,環境論から見た地域社会内部の諸関係の分析は別の機会に譲ることとして,ここでは,環境をめぐる国家と地域社会の関係に視点を定める.環境をめぐるペルーの国家と地域社会の現状を一言でいえば,フジモリ政権下で急展開を始めた環境政策のもとで国家の圧倒的に優勢な政策展開を前にして地域社会はいわば守勢にまわり,やっと近年それへの対応が出始めたばかりであるといえるだろう

そこで,本稿がカバーする範囲は以下のようになる.環境問題に対する予備的考察(1項)を踏まえて,まず1970,1980年代のペルーの環境政策を概観し(2項),その中から1990年代に入ってなぜ「生物多様性」戦略がペルー環境政策として採用されるに至ったのかの理由を考察する(3項).90年代のペルー環境政策の展開は新たな環境機関,INRENAとCONAMを生みだした.この2つの機関は「生物多様性」戦略の推進にどのように関わろうとしているのかを次に検討し(4,5項),そのうちの1つINRENAが演じてきた環境行政の実体を明らかにする.その実体は,この国家戦略がアマゾン・インディオの生活にどのような影響をもたらし,また彼らの固有な経済社会とその文化の在り方とどのように齟齬をきたすものであるかの解明に導かれていく(6項).最後に,2000年代に入ってこの「生物多様性」戦略はどの様な新しい段階を迎えようとしているかを考察し(7項),ペルーの環境問題の将来を展望する.


1. ペルー環境政策のフレームワーク

アルベルト・フジモリ前大統領は,2000年7月28日,リマのセントロ市街地がデモ隊の抗議活動でかつてないほど騒然としたなか,議員からのヤジと怒号が飛び交い同様に騒然としたペルー議会で大統領就任演説を行った.フジモリはその政権の3期目に入ろうとしていた.ペルー国民向けのその演説の中で,3期目の主要政策の1つになるはずであったアマゾン政策について「アマゾンへの新しい視点」(una nueva visión de la Amazonía)と題して,彼は熱を込めて次のように語った.ペルー・アマゾンであるセルバは,コスタ・シェーラに較べて未だ経済的に低開発地域に留まっている.このセルバをペルーの他の地域と同様な開発レベルに到達させることが,次の5年間の大きな政策課題である.しかしながら,そのための経済開発は,最近成立した「新熱帯雨林基本法」(Nueva Ley Folestal y de Fauna Silvestre. Ley no.27308.15.07.2000)に沿う形でなければならない.すなわち,セルバの豊かな熱帯雨林にはぐくまれた森林資源,「生物多様性」資源,さらには観光資源等の保全の枠内で,アマゾンへの投資は行われなければならず,それは持続可能な開発でなければならない,と.

つまり,彼の2期在任期間にあたる10年間のアマゾンを中心とした環境政策の制度的集大成が確かに「新熱帯雨林基本法」なのであるが,2000年以降の第3期目のアマゾン開発 –これは結局彼の手で成し遂げられないことになったがー は,それを踏まえたものでなければならないと主張している.ここでアマゾン開発とは,アマゾンへの市場経済的投資のことであり,ペルーの経済的状況を考慮するとそれは主に多国籍企業などの外国からの投資になるはずだが,その投資が10年の環境政策の彼の努力を犯さない範囲内でいわば「持続可能性」の範囲内で導入されなければならない,といっていることになる.フジモリのこのような政策展開を理解するためには,アマゾン投資に先だってアマゾン環境政策の展開が優先された理由は何であったのか,それは90年代はじめの経済破綻状況のみに起因していたのかどうか,そしてフジモリが自らの政権運営を譬えた「礎石」と「建物全体」 (6)にこのことは関連しているのかどうか,そして何よりもまず,彼のアマゾン環境政策の目的は何であったのか,といった諸点が解明される必要があるだろう.

そこでまず,ペルーが取り組んできた環境問題と環境政策の置かれた状況をグローバルな人間と環境の関係から順に見ていこう.ここでは,環境とは自然環境を指すこととし,それも現在の地球自然環境に限定することとし,環境問題とは常に自然環境と人間の相互作用の中に発生すると考えよう.そうすると,自然環境をめぐるテーマは,大きく,「負荷を蓄積する自然環境」というテーマと「資源をもたらす自然環境」というテーマに大別できる.そのうち第1のテーマに関していえば,負荷の増大原因は,メタンハイドレードの融解など自然そのものによる負荷の蓄積を除外すれば,おおむね人為的なCo2濃度の上昇,有害化学物質の放出,一般廃棄物の増加などにもとめられている.このうち,Co2濃度の上昇に起因すると考えられる気象変動,砂漠化,またCo2濃度上昇原因とされる森林減少などが地球規模の環境問題として国際的な利害を巻き込んだ緊急課題になっていることは,周知の事実である.それ以外に,たとえばフロン・窒素酸化物・イオウ酸化物の放出などの負荷増大原因は,さしあたり,地方的問題のように見えるが,すでにグローバルな問題になりつつあるものも出始めている.このように見てくると,「負荷を蓄積する自然環境」というテーマは先進工業国に特有なものに思われがちであるが,後進諸国においてももちろん同様に大きなテーマであることに違いはない.つまり,都市部における極度の大気汚染とCo2濃度の上昇,さらに貧困対策,鉱物資源開発による熱帯雨林などの森林伐採,それに基づく生態系の破壊が挙げられる.しかし,後進諸国においては,これが社会的政治的に中心的テーマになることは希である,なぜならば,「資源をもたらす自然環境」の方が面積的に圧倒的に大きいし,政治経済的な関心も常にこちらに向けられているからである.そこで,第2の「資源をもたらす自然環境」というテーマについてであるが,ここでは,石油・天然ガスなどのエネルギー資源,鉄・銅・宝石原石などの鉱物資源,水資源,森林資源,野生動植物資源,「世界遺産」としてのエコロジー資源,さらにエコ・ツーリスモに資するものとしての観光資源など様々あるが,概して経済資源を供給する自然という側面が強調されがちである.しかし,自然環境から人間にもたらされる「資源」とは,上記のような市場経済活動に資する経済資源だけではないであろう.人間の生活の糧と生活空間そのものが,さらには生活を豊かにする場そのものが,自然から得られるより根元的な「資源」であるはずである.それは,熱帯雨林に生きる森の民の暮らし,都会生活者のアウトドアでのレクリエーションを思い浮かべれば理解されるはずである.

では,環境問題の先進国モデル,後進国モデルとはどのように理解すればよいだろうか. 先進国,後進国のそれぞれに「負荷を蓄積する自然環境」と「資源をもたらす自然環境」が偏在することは確かであるが,いずれの国でも両方のカテゴリーが併存していることはすでに見たとおりである.したがって,いずれの国でも環境負荷の削減と同時に自然資源の保護と開発というテーマを共通して内包しているのである.ただ,それぞれの国,地域で,環境問題の意識のされ方が偏っている.その意識の偏りは,国際政治のリアリズムという形で押し寄せてくる「外部の要請」に拠ることが極めて大きいが,人々のいわば「等身大」の意識・利害を相互に調整しそれをマジョリティーの意識にまで統合した結果である「内的な要請」に基づいて環境問題意識が誘導されることも否定できない.もちろん,環境に関する意識形成と政策決定・優先順位決定の間にはまだまだ距離があり,そこにいろいろな事情が介在してくることはいうまでもない.このような事情を考慮したうえで,環境問題の先進国モデル,後進国モデルを現代的にかつ象徴的に代表させるメルクマールを取り出すと,それは「気象変動枠組み条約」FCCC-Framework Convention on Climate Changeと「生物多様性条約」CBD-Convention on Biological Diversityのどちらをより重要視するかで振分け可能であると考えられる (7).ほとんどの国は,現在両方の条約に調印し批准しているのであるが,各国でそのとりあげ方は大きく異なり,どちらかに片寄っているのである.先進国では「気象変動枠組み条約-FCCC」に,後進国では「生物多様性条約-CBD」にそれぞれ片寄っているのである.

さて,ペルーに再び目を転じると,ここの環境問題はおおむね後進国モデルに属する.「資源をもたらす自然環境」カテゴリーのうち生物多様性資源に関して,後進国とりわけラテンアメリカ諸国に共通したスタンスをとっている.ただ,「負荷を蓄積する自然環境」のうちアマゾン熱帯雨林の減少に関しては,ブラジルに比べると遙かに小さいく,アマゾンへの環境対策はその分ブラジルよりかなり遅れて開始されることになる (8).むしろペルーは,生物多様性資源保護ならびに森林伐採の抑制などを含めたアマゾンの総合環境対策に関して.ラテンアメリカ諸国の中でもアンデス諸国共同体Comunidad Andina de las Naciones-CANのメンバー国とほぼ状況を共有していた, ペルーのフジモリ政権は,1990年代を通して,一面でグローバルな環境問題に様々な側面から取り組んできたものの,その視線ははっきりと「資源をもたらす自然環境」を見つめており,資源保護とりわけアマゾンの生物多様性資源の保護と資源の経済開発に軸足を置いていた.ただフジモリが,資源保護と資源開発の間に明確な優先順いを付けたことには,90年代始めの混乱を極めていたペルーの政治・経済・社会状況が影響したであろうし,さらに彼の政治哲学が影響していたはずである.


2. 1990年以前の環境政策

1969年 “Nueva Reforma Agraria” (DL.17716)によって急進的な農地改革 (9)に着手したベラスコ軍事政権時代のアマゾン関連政策から振り返える.体系的な環境政策の展開は1990年代を待たなければならないが,いわば早生的なアマゾンをめぐる環境政策が,この軍事政権の時代にすでに実施され始めたことは注目に値する.まづはじめに,資料-Aを参考にして全体の動きを概観すると,ベラスコ政権の最後の年に旧「熱帯雨林基本法」(Ley Forestal y de Fauna Silvestre, DL.21147. 15.05.1975)が成立しているし,この基本法に関する行政規定が,穏健派のモラーレス・ベルムーデス政権下で次々と成立している.さらに,セルバのComunidad Campesina 法といわれる新旧2つの「アマゾン・ナティーボ法」(DL.no.20653. 24.06.1974 とDL.no.22175. 09.05.1978)も軍事政権の2人によって別々に策定され実施に移された.注目すべきは,1976年に現在のペルー・エコロジー警察の前身である森林警察(policía forestal)が,DS.no.003-75-INによって創設されていることである.この森林警察は,次々と実施される熱帯雨林関連法の実施を監視し,森林資源の伝統的利用と商業伐採ならびに森林の変形に対して助言を与え,さらに,森林内での動植物資源に関する違法行為者,主に野生生物種の不法採集に関わるマフィア,の捜査,検挙,起訴にあたることを目的として創設された.その実際の活動実績は不明であるが,これは当時の治安警備隊(Guardia Civil)の中に配属され,全領土を一元的に監視する権限が与えられていた.この森林警察は,その後様々な改組を経て,2000年には国家警察の特殊部局の1つである観光・エコロジー局(Dirección Nacional de Turismo y Ecología)に編入され,さらに権限が強化されている (10).

以下1970年代から1990年までの主要なものを検討していく.1969年の農地改革法の及ぶ範囲は,コスタ,シェーラそしてセーハの一部地域に限られていた.ペルーの国土の75%近くを占めるといわれるセルバは手つかずであったので,それに替わる法律が準備されなければならなかった.それが,1974年に成立した「アマゾン・ナティーボ法」(DL.no.20653)である.この法律は,セルバの農地改革法,コムニダ・カンペシーナ法によく譬えられるのであるが,セルバは歴史的条件が全く異なるので,他地域と同様な対処法をとるわけには行かなかった.この法律は,まづナティーボ集落comunidad nativaというコンセプトを初めて使用して,アマゾンインディオの村々をその領地である森と一緒にペルー領に統合することをもくろんだ最初のものであったという点で画期的であったといえる.軍事政権以前の時代も,もちろん開発の名の下に道路建設などによりアマゾンへの接近を様々打ってきたのであるが,そこでは,アマゾンインディオの存在そのものは無視されていた.ところが,同法によって,インディオは森と土地の共同利用(個人利用も後に)と占有を法律的に認定され,ナティーボ集落として政治的にペルー領土に統合され保護を受ける権利を獲得することになる (11).

インディオ集落がこのような法律的認定と保護を受けるようになるためには,彼らは一定の条件を許容する必要があり,実はこのことが軍事政権をして同法を策定させた真の理由であったと最近論じられるようになっている (12).つまり,森と土地の共同利用を認めるといっても,それはインディオがそこで農業生産,つまり焼き畑耕作と狩猟・漁労,を行う限りでのことであり,広大な熱帯雨林そのものの領有権とそこに存在する石油や樹木などの戦略的自然資源の領有権は彼らに認めないとする点である.このことは,ナティーボ集落のテリトリーを行政的に確定し制限することによって,戦略的自然資源を森林業者,石油開発業者などに事実上提供し,彼らのセルバでの経済活動とそこへの移民を促進する狙いがあったというわけである.事実そのような狙いがあったと思われるし,1978年の新「アマゾン・ナティーボ法」(DL.no.22175)では,その意図がさらに拡張され,国家による企業へのアマゾンの土地供与の上限が引き上げられると同時に,個人入植者への土地供与も認める制度に変わったのだった. このような視点で「アマゾン・ナティーボ法」を見つめると,軍事政権がアマゾン入植政策で先を走っていたブラジルをいかに強く意識していたかが窺える.事実,1978年7月ペルーは,ブラジルの呼びかけに応じてブラジリアで他のアマゾン領有国とともに会してアマゾン協力条約を結び,アマゾン開発で協力関係を約束しあったのである.もちろん,このような条約と「アマゾン・ナティーボ法」が,どれだけアマゾンの経済開発と入植に寄与したかは全く定かではない.

1975年に旧「熱帯雨林基本法」Ley Forestal y de Fauna Silvestre (DL.no.21147)が成立する.この法律は熱帯雨林の自然資源の利用と保護を定めた,まさに環境政策の開始を告げるのにふさわしいものであった.この法律の特徴を挙げると,まづアマゾンの野生動植物を公共財と初めて規定したことであり,さらに,いままで個別的であった野生動植物の管理に関する法令と地域的な自然保護区を定めた法律を基本法にふさわしく大系化したことである.さらにもう1つの特徴を挙げると,2000年の新「熱帯雨林基本法」の成立までその法的有効期間が25年に及ぶということである.これはある意味で驚異的なことであって,フジモリの10年間に及ぶ環境政策のうちアマゾン政策はこの法律に準拠していたのであった.しかし,この有効性の長さは,別の面を暗示しているのであって,1970年代の軍事政権時代,1980年代の民政移管後の時代には,この基本法はあまり現実的な有効性を持ち得えなかったがゆえに改正の必要もなかったということを物語っている.

さて,民政移管に向けて1979年に制定された憲法のうち環境関連の条項に目を移すと,そこに既述の「アマゾン・ナティーボ法」と「熱帯雨林基本法」の両方がうまく取り込まれ融合し合っているのを発見する.1979年憲法の環境関連条項は次のように構成されている.つまり,経済システムを扱う第2部に,第2章「自然資源」,第8章「カンペシーノとナティーボ集落」が置かれ,前者は第118条から第123条まで,後者は第161条から第163条までで構成されている.これらの条項のうちここで注目すべきいくつかについて見てみよう.自然資源に関する第118条は,自然資源の国有財産宣言として知られ,ほとんど全ての自然資源は国家に帰属すると宣言している.これはこれまでの事実上の事態を追認しただけのように見えるが,それを超えた意味も含まれている,というのは,未知の資源についてもそれは国家に帰属することを意味しているからである.同じ自然資源に関する章の第123条 は,自然環境保護の目的とこれに関する国民の権利と義務を述べている.つまり,国民全ては,エコロジカルに保全の行きとどいた自然環境の中で健康的な生活を営む権利を有すると同時に景色と自然を保存する義務を負い,国家はそれを推進するとしている.ここで注意したいのは,国家に何らかの経済的利益をもたらすものとして,自然環境保護が描かれていないことである.次に,第8章「カンペシーノとナティーボ集落」においては,コスタ・シェーラのカンペシーノとセルバのナティーボが並列的位置に立っていることが先ず目を引く.そして,第163条は,両地域の農民による土地の利用と占有の権利は,固有にして不可侵(inembargable, imprescriptible e inalienable)なものであるとしている.ただし,農民の土地の私的所有は認めず,とりわけ集落内での土地の買い占めは厳禁であるとする.

このように,環境政策のうち自然資源に関する基本的枠組みを持った憲法の下でスタートした民主政権であったが,1980年代を通して見るべき環境政策は無かった.累積債務という経済問題に直面した政権が,現実的には,アマゾンの資源保護と資源開発を有機的に組み合わせて経済危機に対処しようとする姿勢が出てこなかったのである. ただ,ガルシア政権の終わりの年である1990年3月に「国家による自然保護地区の管理システム法-SINANPE」DS.no.010-90-AGを発令したのが唯一の例外であろう.このSINANPE は,フジモリ政権で大活躍することになるのであるが,ガルシア政権にとっては遅きに失したというべきであろう.
以上の時期を通して概観すると,軍事政権時代の環境政策の特徴は,まず第1に,その主要対象域がアマゾン地域に限定されていることであり,そのことに関連して,第2に,野生動植物の資源保護がこの時代のキーワードであったということができよう.つまり,コスタ・シェーラ地域で産業公害などの問題が現実的に顕在化しなかったゆえに,環境問題といえばもっぱら関心がセルバの熱帯雨林に集中した.コスタ・シェーラでの環境が問題になるときも,常にそれは森林と結びついていた.山に樹木があまり見あたらないアンデス高地で,その麓に所々ユーカリを中心とした森を見かけることがあるが,それらはことごとく1970年代軍事政権の植林運動のたまものなのである.1980年代の民主政権の時代には,環境政策に見るべきものは多くなかったが,これは,1980年代に入って環境問題への関心が世界的に退潮気味であったことと対応しているし,また,累積債務という解決を迫られた経済問題に関心が移動したことの現れであろう.


3. 1992年「地球サミット」のインパクト

90年代のペルー環境政策に影響を与えた国際情勢に目を転じてみよう.カリブ海を含めたラテンアメリカ諸国が,環境問題・環境政策で国際的な発言を始めたのは80年代の後半からであった.それまでは,1978年のアマゾン協力条約など地域的協力関係の模索にとどまっていた.累積債務問題が深刻化しペルーを始め幾つかの国で市場経済の破綻が目に見えていた80年代終わり頃になって,ラテンアメリカ諸国が環境問題で国際的に積極発言をするように転じた背景には,環境問題をてこに先進国から資金援助システムを構築しようとする意図が確かにあった.しかし,これらの諸国が積極姿勢に転じたもう1つの理由は,再び活発化してきた環境議論に,今度は地球環境問題という名で登場したものに,自然資源を膨大に領有する後進国モデルからはっきりとした態度を示しておこうという意図があった.これらの国際会議で取り上げたテーマは,新たに登場した「持続可能な開発」 (13)というテーマであり,この概念をめぐって後進国の立場を鮮明にする諸提案をおこなったのである (14).ペルーはこの時期のラテンアメリカ諸国の動きに積極的に参加する余裕がなかったが,この諸国の動きが1992年のブラジルでの国連環境会議の開催につながったことは確かであろう.

さて,1992年6月ブラジルのリオ・デ・ジャネイロで開かれた国連環境会議The United Nations Conference on Environment and Development,通称「地球サミット」を少し詳しく見てみよう.これは,ローマクラブの「成長の限界」などに触発されて先進国サイドの環境問題を主要議題にして1972年ストックホルムで開かれた国連環境会議 (United Nations Conference on the Human Environment)に次ぐものとして開かれ,156ヶ国が参加した (15).地球サミットのテーマは,会議の題名からも解るように,自然環境と進歩の折り合いを付けることであり,「持続可能な進歩」,「持続可能性」といった言葉がキーワードになった.会議では,リオ宣言,アジェンダ21が最終日に満場一致で採択され,2つの付属議定書が自由調印とされた.この自由調印となった原因は,アメリカ合衆国が気象変動枠組み条約の調印を拒否したことにあることは新聞報道などで周知の通りである.

今,地球サミットの精神を集約的に表現していると思われる「リオ宣言」 (16)をまず取り上げる.「宣言」は,生物多様性に関連して,国連憲章を確認する形で,あらゆる自然環境とその資源の利用と管理は,それぞれの国家が(外部勢力に対して)主権を有することを主張し(第2項),また環境関連の国内的行政は,関係するすべての市民の参加の下で行われることが望ましく,環境に関する情報公開と市民の自覚を顕揚することが必要であると唱っている(第10項).気象変動等の地球規模の環境問題に関しては,その原因物質の低減策に費用-効果基準を導入すること(第15項),市場経済的手段を利用して環境コストの国際化を図ること(第16項)が宣言された.これらは,現在,温室効果ガスについて国内的な炭素税の導入,CO2排出権の国際的取引の問題として検討が重ねられ現在実行段階に入っていることは,我々の知るところである.一方, 2つの付属議定書 (17)は,その後の世界的な環境議論を方向付けたといってよい.既に述べてきたように,2議定書は,環境議論を先進国型環境論モデルと後進国型環境論モデルに2分するきっかけを作ったのであった. 2議定書の「地球サミット」時点でのそれぞれの意義を概観すると,気象変動枠組み条約-FCCCが,その焦点を温室効果ガスに絞り込んで,リオ宣言第15-16項の趣旨にほぼ添った国際協約になっている一方で,生物多様性条約-CBDは,生物多様性資源の持続可能な利用を規定するに留まらず,抽象的ではあるがすでに,バイオテクノロジーによる遺伝子組換え生物が生物多様性へ及ぼす影響の防止,遺伝子資源の保護をテーマに取り上げているのである.この後者の点は注目に値するものであった.さて,「地球サミット」を全体的に評するならば,ラテンアメリカ諸国の事前の国際的努力にも関わらず,議事は先進国を中心に展開され,それに沿った諸決定が下され,後進国の期待はかなえられない結果に終わった.しかし,「地球サミット」の意義は極めて大きく,1990年代以降国際政治の主要テーマの1つになっていったことは間違いない.しかも,この地球規模の環境問題をめぐって先進国と後進国の乖離が再び鮮明になってきたのである.

次に,「地球サミット」のペルーにもたらしたインパクトを検討する.ペルーはこれらの議定書の批准にいち早く動いた.2つ議定書のうち生物多様性条約-CBDを1993年5月民主制憲議会で批准している (RL.no26181) (18).この国際環境会議がペルー国内の環境政策へ与えた影響は,色々な側面に見て取ることが出来るが,もっとも基本的なことして,1993年新憲法への影響を見て取ることが出来る. 1991年4月5日のアウトゴルペ以降に召集された民主制憲議会は,1993年12月29日新憲法を発布した.この新憲法では,その第3部「経済システム」第2章が1979年憲法の「自然資源」から「環境と自然資源」に書き換えられた.もちろん表題の変更だけでなく「地球サミット」でのキーワードとコンセプトがそこにふんだんに持ち込まれているのである.1993年憲法の第2章「環境と自然資源」は,
第66条:自然資源は国家Naciónの財産であり,国家Estadoはその資源の利用に主権を行使する.諸個人のその利用と私有は系統法ley orgánicaによって条件づけられる.
第67条:国は,環境政策を策定し,自然資源の持続可能な利用を促進する.
第68条:国は生物多様性保護と自然保護区の保全に努める責任を負う.
第69条:国は,適切な法制度をもってアマゾンの持続可能な開発を促進する.
という4条によって構成されている (19).明らかに用語法が,「地球サミット」のそれにならうものとなっている.注目すべきは,全体として環境を唱ってはいるが,それはやはり「生物多様性」,「自然資源の持続可能な利用」,「アマゾン熱帯雨林」といった視点からの環境である点である.つまり,「地球サミット」の影響は,専ら生物多様性条約-CBD からのそれであり,ペルー環境政策の主流は生物多様性政策であるという方向付けが行われたと考えてよい.いずれにせよ,「地球サミット」のインパクトが国家の基本法にこんなにも早く反映された国は,ペルーをおいてないのではないかと思われる.それは,制憲議会における新憲法の策定作業と「地球サミット」の開催期間が重なっていたことが大きく影響したであろうが,それだけではないであろう.


4. 農業省の組織改革と環境OPDの設立

ペルーで環境行政を中心的に担う機関は,農業省である.1992年11月,その農業省の大胆な改革を行う法律「農業省組織改革法」(Ley Oránica del Ministerio de Agricultura, DL.no.25902)が公布された.発布したのは,緊急祖国再建政府(Gobierno de Emergencia y Reconstrucción Nacional)であり,アウトゴルペ後の反対勢力が関与できない空白を利用した大胆な改革であった.さらに,この法律は,公布された当初は14の付則を伴い,さらに通常ではあまり見られない7つ臨時付則も伴うもので,緊急措置的性格が非常に強かった.組織転換の趣旨は,かつて軍事革命政府によって発布された「農地改革法」のように明瞭かつ格調の高いものではないが,それは一見して明らかであった.「改革法」の冒頭部分で,農業省の新たな任務は「農業の持続可能な発展」を図ること(第2条)と定義づけている.つまり,工業であれ自然資源開発であれ環境重視の政策に転換しようとする世界的潮流に,具体的には「リオ宣言」の精神に沿った形で資源開発に一定のタガをはめ,環境重視の政策の中から新たな国家的利益を見いだしていくための組織転換であった.これはまた,1993新憲法の第2章「環境と自然資源」とその精神を同じくしていることはもちろんである.

組織改革はまず省中央の再編成に始まるが,改革の中核部分は,かつての農業省直属の諸機関を統廃合し,新たに環境関連の3つの独立行政法人Organismo Público Descentralizado-OPD(第17-22条)を創設したこと,ならびに土地名義化・農地台帳作成プロジェクトProyecto Especial Titulación de Tierras y Catastro Rural-PETT (付則8項)の創設であろう.そのうち,環境関連団体の統廃合がここでは重要であると思われるので,これを詳しく検討する.まず,これらの統廃合後に成立する独立行政法人OPDの共通性格は,「国内行政権を有する法人格であり,運営,経営,経済,並びに財政上の自治権をもつ農業省に直属しない公共機関」(第17条)であると規定され手いる.自治に関して,さらに詳しく「地方政府,農業省中央,ならびに農業省地方支所から行政的・財政的に独立」(付則3項)することが強調されている.これらのOPDとは, 具体的に,INIA (Instituto Nacional de Investigación Agraria), INRENA (Instituto Nacional de Recursos Naturales), ならびに SENASA (Servicio Nacional de Sanidad Agraria) である (20).各OPDの詳しい組織と機能規則Reglamento de Organización y Funcionesは30日以内に新たに発令される(付則2項)となっている.

新設された環境OPDを個別に概観すると以下のようになる.INIA は,農業技術開発を中心的に担っていた旧農牧産業振興庁INIAA (Instituto Nacional Investigación Agraria y Agroindustrial)を母体として,それぞれ独立していた農業技術教育センターCESPAC,家庭菜園・植木・小動物飼育プロジェクトHUFACAM, 種牛精子銀行BNSGV などを統合して設立された.本部は,INIAAと同じく,リマのラ・モリーナ地区の国立農業大学の向かいにある.機関任務は,コスタ・シェーラ・セルバのペルー全域の農業に関する技術研究,技術開発,技術移転であり,その点は旧INIAAと変わっていないが,新たに「種形成因子資源」recursos germoplásmicosの保全,保護,ならびに資源管理の任務が付け加わった点(第18条)は注目しておくべき点である.

INRENAは,かつてあまり目立たなかった自然資源評価局ONERN (Oficina Nacional de Evaluación de Recursos Naturales)と国立公園局 (Programa Nacional de Parques Nacionales Perú)を統合し設立され,本部をサン・イシードロ地区の旧ONERNの跡地に置く.同「組織改革法」によれば,設立時のINRENAの機関任務は以下のように規定されている.私的セクターの積極的参加と協調して自然資源全般の合理的利用と保全を促進すること,同時に,灌漑・上水道などの水資源の保全,塩害・表土流出などによる土壌破壊の回復にむけて調査研究をおこなうこと(第19条)などとなっている.この機関任務の条項と先述のOPDの自治組織規定を併せて読むと,INRENAは自然保護NGO の窓口として自然資源の保全をコーディネイトする半官半民の独立法人というイメージが浮かんでくる.設立当初はそのような側面を意識的に示していたかもしれない.また,今でも本部付属の図書館と一部の資料を一般公開し続けていて,市民派の印象を持たれがちである.しかし,INRENAの機関としての性格は急速に変貌を遂げたと思われる.資料-AのINRENA関連立法の並外れた多さからも窺い知れるように,このOPDは,農業省からは相対的に独立したにもかかわらず,政権との直接的な関係を強めていき,90年代の終わり頃には,フジモリの環境政策の核心部分の行政権限を一手に握る硬派の機関となっていたのである.その背後には,もちろんフジモリ政権の政策意図が働いていたと思われるのである.いずれにせよ,INRENAは,DS.055-92-AGによって組織と機能規則を発令され,1993年1月1日にその活動をスタートさせた.

ここでINRENAの内部組織を関連する限りで概観する.組織資料は,2000年度のものである.INRENAは,農業省時代のONERNを組織的に引き継いだので,本部と地方組織が初めからある程度整備されていた.したがって先ず,中央—地方の組織関係から概観する.各県ごとにある農業省地方支所は,農村地帯では行政の中心的存在であるが,INRENAの地方支部はそのほとんどの農業省支所の敷地内に事務所を持っている.プエルト・マルドナードにあるマドレ・デ・ディオス農業省支所では,2000年頃,INRENA の事務所棟は新築棟を含めて全棟の半分近くを占めていた.このように地方組織が整備されているにもかかわらず,地方で処理し決定する作業はそれほど多くない.全国の地方支部は,本部の正副所長の事務局に直接統括され,ほとんど全ての事案はそこを通して決定が下されるといった中央集権的組織構造を成しているからである.さて本部組織を概観すると,本部の内部組織も中央集権的であるのはもちろんであるが,それでも一定の決定権が任されている重要部局が4つある.それらは,自然保護区局Dirección General de Areas Naturales Parotegidas,森林・野生生物局Dirección General Forestal y de Fauna Silvestre,環境問題局Dirección General de Asuntos Ambientales,そして水・土壌局Dirección General de Aguas y Suelosであるが,一番重要と思われるのは最初の2局である.自然保護区局は,前述のSINANPEを執行する部局で,この局長はANPE最高責任者を兼ねる.森林・野生生物局は,やや学究的で,全国規模での森林状態と野生生物に関する調査研究を行い,国の内外での研究発表のコーデネート等を行っている.しかし,このような調査研究は,自然資源保護を目的として行うのであり,その調査結果は,保護地区の決定,保護動植物種の決定に直結するのである.このようにINRENAの組織形態とその活動は,およそ市民派の独立行政法人とはかけ離れたものなのである.
SENASAは,新たに設立された機関で,その本部はリマ・サラベリーの農業省の庁舎内にある.その機関任務は,私的セクターの積極的参加と協調して,国内の農業・牧畜の一般的衛生管理,農産物・牧畜生産物の国内商品化あるいは輸出入の際の検疫,とりわけ経済的に重大な影響を及ぼす栽培植物・家畜の病気の予防と根絶を任務としている(第20条).SENASAは,当初,事務局が即座に開設され,その組織と機能規則も順調に1992年中に発令される(DS.056-92-AG)など,その役割が比較的重要視されていたが,その機能の一部が次第にINRENAに取り込まれて,その重要性を減じてきた経緯がある.しかし,遺伝子資源の国際取引が現実化しつつある今日,その役割は潜在的に増加する傾向にある.

組織改革のもう1つの柱であるPETTの創設を見ておこう.改革の柱であるとはいえ,「農業省組織改革法」では付則第8項でこのプロジェクトの設立が宣言されているのみで,その中身はなく,30日以内に関連法を発布すると表明しているに過ぎなかった.したがって,PETTの具体的内容は,その後発布された以下の法律によって与えられることになった.PETT組織と機能規則 Reglamento de Organización y Funciones del PETT (DS.057-92-AG, 30.12.1992),PETT組織と機能改正規則Modifican el Reglamento de Organización y Funciones del PETT (DS.058-92-AG, 30,12,1992) (21), さらにPETT行政手続法(TUPA) Texto Unico de Procedimiento Administrativos del PETT (DS.11-94-AG, 25.03.1994)等がそれである.これらの法律によると,PETTは,農業省内にあって農地改革の処理を継続的に担当してきた農地改革・農村定住局Dirección General de Reforma Agraria y Asentamiento Rural (22)の任務を集中的に代位するために設立された.つまり,農地改革の遂行過程のうち,国家による農民への農地の授与が1990年代に入っても遅れが生じており,それを早期に集中処理すること,さらに農地利用の「法的健全化」のために各農民に土地保有証書を授与することが主な任務となった.現実的に農地改革の処理の遅れは主にシェーラに集中し,特に高地アンデス牧畜アシェンダの事後処理が問題であった.筆者の知る限りでは,90年代前半,プーノ県農業省事務所のPETTの主な仕事は,チチカカ湖を挟んで東側と西側の4,500メートルの高地にある牧畜アシェンダの事後処理が中心であった.また,これは法律文書から伺い知ることが出来ないことであるが,PETTの任務は,90年代後半に入ってからは,土地保有関係がはっきりしないセルバの各インディオ集落,セーハにある山岳インディオの入植村ならびにアマゾン川の支流源流域にある「未接触ナティーボ集落」などを訪問調査し,住民に土地保有証書を授与することに重心が移っていった.今や,農業省内にあって一番のフィールド・ワーカーは測量技師とPETT局員という状態である.

以上見たように,1992年の農業省組織改革はPETTの創設,3つの環境OPDの統廃合であったと捉えると,その改革の全体的意図がはっきりしてくる.それは,農業政策の根本的方向転換に他ならない.つまり,農地改革の遂行とそれをてことした農業生産力の上昇,農業地域の経済力の引き上げを基調とした1970,1980年代の農業政策から,農業部門に存在しまたは眠っている自然資源を掘り起こしそれを活用しようという農政 (23)への方向転換であると考えられる.自然資源保護と自然資源利用のどちらを優先させるかの選択問題の前に,先ず方転換を行ったのが,農業省組織改革であったろう.


5. PCM系環境機関CONAM

以上見てきた農業省改革に連動した環境関連機関とは別に,もう一つの重要な機関CONAMが,それより3年近く遅れて設立された.その設立の経緯には以下のような事情が介在していたことは注目しておく必要がある.資料-Bから解るように,「地球サミット」の「生物多様性条約」がペルーでは1993年5月批准される(RL.no.26181)とすぐに,同年7月に「生物多様性に関する国民委員会」構想(RS.no.227-93-EF)が閣僚評議会内に企画された.これがCONAMの前身であると同時に,その基本性格を規定したと思われるのである.この構想は,生物多様性条約を批准したことと1993年9月に開催が予定されていた生物多様性条約CBDの第1回政府間委員会 (24)を強く意識し,国際的環境外交に継続的に対処していくために広範な国民意見を集約する機関の必要性を説き,同国民委員会の設立を唱っている.そのために,同国民委員会は中央政府のみならず様々な地方政府の代表者,環境関連のすべての準政府機関の代表者によって構成されるべきこと,そしてそれを外務省の代表者が主催すべきことと規定していたのだった.このように,生物多様性国民委員会は,構想段階では明らかに閣僚評議会PCMに直属する性格のものであった.ところが,この構想は,そのままの形では現実化せず,1年半近く放置された後,いくつかの変更を加えられたうえで,環境国民評議会Consejo Nacional del Ambiente -CONAMという名前で,1995年1月成立することになる.その間でなされた大きな変更点は,環境外交政策に資するための委員会から中央政府の環境政策全体に対する諮問機関への新機構の位置づけの変更であった.さらに,組織的には,農業省系の環境関連機関と同様,PCM系の独立行政法人OPDとして創設されることになり,評議会議長は大統領任命の3人の理事が勤めることになった.CONAMは,このようにして創設されることになるが,農業省系の環境関連機関とは,はじめから大きな違いがあった.それは,全国的な地方事務局などの既存の前身組織を一切持っていなかったという点である.かくして,CONAMは事務局(SE)をリマのサン・ボルハ地区に置き小規模でのスタートすることになる.

まず,CONAM設立法(Ley no.26410, 22,12,1994)を概観すると,CONAMがどのような課題を担わされた機関であるかが理解できよう.同設立法によると,CONAMがカバーすべき活動範囲として,15項目が挙げられており多岐にわたっているが,主要なものは,次の3項目に集約しうると思われる.
1. 中央政府に対して,マクロな環境政策を立案しコーディネイトし,政策評価を行うこと.
2. 環境政策のスムーズな遂行のために,中央政府と地方政府・地方住民との意志疎通をはかり,両者の諸活動を調整すること.
3. 全国的な環境基準を確立すること.

一見して解ることは,これらの課題は,CONAMにとってあまりにも過大すぎるということである.行政的権限を十分に付与された省庁ですら,全てをカバーすることが難しい諸課題を, 1諮問機関に過ぎないCONAMに背負わせるのは,過重すぎるという他はない.つまり,CONAMが全国組織を持たない小規模の機関として発足した経緯からみても,すべての範囲をカバーすることは元来不可能であったし.さらに,資料-A, 資料-B を比較してみて解るように,農業省の環境関連機関とりわけINRENAと比較して,CONAMはその全ての活動に対してきわめて少ない行政権限しか与えられなかったのである.

したがって,CONAMは,発足当初からその実現可能な活動を限定しつつも,柔軟かつ精力的に活動を展開していくことになる.具体的には,政策コーデネーターの課題に対してはさしあたり環境政策の研究と報告書の作成で,中央と地方との調整課題については独自のMEGA-CAR組織作りで,さらに全国規格の環境基準作りならびに環境評価の課題に対しては大気汚染基準の作成と,少し後になるが,ISO9001ならびにISO14001の資格取得に向けて企業家を組織し教育していく活動で果たしていこうする方針を取ったのであった.これらのうち,CONAMが当初一番力を入れていたと思われる環境問題に取り組むための組織作りをここでは少し詳しく見てみよう.

その組織作りは,Marco Estructural de Gestión Ambiental-MEGAとその独自な地方組織であるComisión Ambiental Regional-CARと呼ばれる.MEGAとは,ペルーが取り組むべき環境問題の概念形成とそれを具体化すべき組織系統を抽象的に表現したものである.CONAMが1995年初め発足するとすぐに,Banco Interamericano de Desarrolloの資金援助のもとでFortalecimiento de la Gestión Ambientalプログラムが組織された.それは,主に外国での環境問題の取組み経験の比較検討を通して,ペルーの独自モデルを探ろうとする研究であった.その研究成果に基づくモデル化と提言がMEGAという形で1997年11月法制化されたのだった(DCD.no.001-97-CD/CONAM) (25).
MEGAは,環境問題の取り組みへの包括的体制を,垂直的に実質3レベル構成で,さらに水平的に組織細分化するシェーマで描いている.第1レベルには,ペルー政府の閣僚評議会そのものが位置づけられ,第2レベルは諸事務局Comisión Ambiental Transectorial-CAT (26),Secretario Ejectivo-SE,Comisión Ambiental Regional-CARが占める.第3レベルには,諸専門作業部があり,具体的懸案の研究と基準作りを行う.この専門作業部は,発足時9部会が存在し,CATと地方CARとの双方向の協力関係の下に任務を遂行するとされているが,実質的にはCATが指導し監督する立場にある.さて,CATはさらに中央と地方に分かれる.中央CATは,環境関連の諸行政庁の長官と関連各省の副大臣の総勢20名で構成される全国委員会であるが,県単位の地方CATは地方行政担当者の代表とNGO代表などによって構成され,現時点ではクスコ県,マドレ・デ・ディオス県,モケグア県の3県にしかそれは設置されていない.

<fig.1を挿入>
2005 fig.1


ところで,CONAMがMEGA実施にあたって力を入れたのは,なんといっても地方ごとのCAR作りであろう.CAR作りのため,専門作業部の部長クラスが各地方を訪れ,地方と中央のパイプ役を担い,かつ地域に密着した環境意見を展開できる人材の発掘をゼロレベルから行なった経験を持っている.そして2002年時点で,クスコ,マドレ・デ・ディオス,モケグア,アレキーパ,アンカッシュ,ピウラ,テゥンベス,ラ・リベラルタ,パスコ−フニンそしてウカヤリの10の地方にCAR常設委員会を設置するまでになっている.

しかし,CARという野心的試みも様々な限界をもっていた.まず第1に,その試みが地域的に著しくコスタ・シェーラに偏っている点をあげなければならない.第2として次のような事情を指摘なければならな. fig.1は,セルバに位置するマドレ・デ・ディオスCARの発足当時のメンバー構成を示している.これを見て解ることは,環境行政の実際の権限を持っている農業省のメンバーを欠いている点と,多くのメンバーがNGOからの派遣あるいはインディオ農民である点である.行政権という立場から中央と地方のパイプ役を担える人材といえば,唯一CTARからの1派遣メンバー(人物B)であるが,彼がどれだけの権限を持っているかは疑わしい.したがって,CARは,行政権限を著しく削がれたうえ,実際はNGOと農民のためのフォーラムの色彩が強いものだといわざるを得ないだろう.しかし,それは必ずしもデメリットばかりではない.CARは,別の視点,つまり環境問題をテーマにしながら農村地域・アマゾン狩猟採集地域などの地域社会を統合し広範囲な連合社会を展望する試みという視点,から見ると有意義なものである.

ところで,CONAMは,MEGAによる地域社会の連携作りとは別に,全国規模の環境専門家フォーラムEcodialogoを定期的に主催していることは,特筆すべきことである.このフォーラムは,今まで1996(Ica), 1997(Arequipa), 1999(Lima), 2002(Cusco)にほぼ2年置きに開催されているし,その詳細な報告書も刊行されている (27).

CONAMの成立事情とその主な活動内容から,ペルーの環境政策全体の中でこの機関がどういう位置を客観的に占めているかを少し考えてみよう.まず第1に注目すべき点は,CONAMが,その設立プランの段階から環境問題のうちでも生物多様性と深い関わり合いをもっていたことである.ただし,それにはもう1つの側面が介在していた.つまり,国際的環境外交にペルーの立場から継続的に対処していくために広範な国民意見を集約する機関としての性格付けである.確かに広域的環境コーデネーターという役割を後に付与されたとはいえ,この内から外に向かう環境政策に対処するという性格を根本に持っている点である.しかも,内から外に向かう政策といっても,肝心の「内」であるペルーの立場を曖昧にしている点が,決定的に難点をなしているのである.かくして,CONAMは政策理念の作成,提案書の作成では重要な役割を果たすことになるが,それはいわば国民と外国へのプロパガンダの域を出るものではない.一方,生物多様性の保護を国内的に執行しようとする場合,つまり外から内に向かう環境政策を執行する場合,多くの規制措置と許認可権を必要とする.このような国内的取り組みは,他のOPD,とりけ,当初からかなりの行政権を掌握しているINRENAが前面に出てくる.このような行政権をめぐる力関係の落差から,生物多様性保護の諸提案も,徐々にINRENA側からより多く行われる傾向が生じた.フジモリの環境政策の核心部分は,アマゾン政策であり,生物多様性戦略と資源開発戦略であるということができる.その限りで,CONAMは政権の中枢に近接しているにもかかわらず,環境行政の核心部分から大きくそれているのである.

また第2に,このように環境行政権限が大きくINRENAにシフトする中で,CONAMに残された唯一ともいえる広域的環境コーデネーターの役割についても大きな制約が生じている.CONAMが具体的に取り組んだ環境コーデネートの課題とは,すでに見たように,全国規格の環境基準作りと環境ISO資格取得に向けての組織作りを中心とするものである.環境基準作りは主に大気汚染基準または水質基準を巡るものであり,一方,環境ISO資格取得とは企業家集団に向けられたメッセージである.したがって地理的に見て, CONAMがコーデネートできる広域的環境地域とは,実はフジモリ政権にとって核心的なセルバを欠いて,コスタとシェーラに大きく偏っているのである.このことは, CONAMの地方組織であるCARの設置が両地域に偏っていることと符合するのである.以上のことをもう少し象徴的に表現すれば,INRENAがアマゾン自然資源保護,つまり生物多様性保護という後進国型環境行政を一手に掌握する一方で,CONAMは後進国にあって先進国型環境問題に取り組む方向を目指していることになる.明らかに,INRENAの方が,ペルーの国際的位置に合致した環境行政を展開しているといわざるをえない.

そこで最後に注目すべき点は,環境政策の方向性をCONAMがいかに考えているかという点である.CONAMはもとより政権の中枢に近い位置にあって,政権に環境政策の基本ビジョンを諮問する責務を担っているはずであり,今その様々な制約と力量の無さを問わないこととしよう.元来,環境政策は,政治である限り,「誰のための政策か」の配慮と分析を抜きにしてはその基本的視点を失うであろう.さらにいえば,その配慮と分析の背後に,環境論としてどのような「人間と自然」に関する哲学が存在しているかを明示することが説明能力として要求されるはずである.CONAMは,この問いにどのように答えようとしているのであろうか.まず,「環境政策とは,社会,経済と自然の3次元を持続可能な関係に導くべく国家を方向付けることである」 (28)と述べている.さらに続けて,環境政策の目的は「人間の経済 (29)の開発,自然資源の利用さらに自然環境保護の間を均衡化させることによって,経済成長を持続可能な発展へと変換することである」と述べている.かなり焦点を絞って政策目的を述べていると思われるが,そのロジックは必ずしも明瞭になっているわけではない.ここで「経済成長」とは,当然,市場経済の継続的成長を意味しているはずだが,それを「持続可能な発展」へ変換するとはどういうことか.もとより「持続可能な発展」モデルとは,市場経済の型として抑制の利いた低成長モデルのことであり,先行き不透明な不連続の時代に突入している現代から将来を見つめる選択肢の1として提起されたものであった.現在は「持続可能性」というタームが多義的に使用されているとはいえ,ペルーが先進国に必要な将来モデルへの変換を目指すとしていることには疑問が生じる.また,その変換を,シェーラやセルバでの伝統的人間の暮らし方の掘り起こし,自然資源の合目的的活用さらには自然環境の保全を調整しつつ実現するというのだが,国家の政策指針としてはアカウンタビリティーにやや欠けている.まず自然資源の活用とは,誰に益する活用なのかが明らかになっていない.たとえば,アマゾンの遺伝子資源は,コスタの企業家あるいは多国籍企業に利するものなのか,それともアマゾンのナティーボに益するものなのか,またアンデス高地の水資源は,シェーラの農牧民に優先利用されるべきものなのか,あるいはコスタ灌漑に利用されるべきものなのか,といった偽らざる明確な現状認識が必要だろう.そのうえで,「社会,経済と自然の3次元を持続可能な関係に導くべく国家を方向付ける」としているのであるから,CONAMの目指しているものは,第1義的に,ペルー社会の利害・生き方・伝統の相剋する様々なコミュニティーを統合しネーションとしての国家を立ち上げようとする思想であると受け取れる.そして,CONAMが試みている活動もこの思想に裏打ちされているように思われる.これは,大いに肯定しうる側面であるが,その統合の指針が先進国型の環境モデルで良いかどうかは,また別の問題であろう.いずれにせよ,ここでは後進国に適合した明確な「持続可能な発展」の再定義が必要であろう.

以上のように,フジモリ政権下で環境政策の基本ビジョンを諮問する責務を担っているCONAMは,その基本理念を必ずしも明確にしないまま,先進国型環境問題に取り組む方向を打ち出してきたと読み解くことができるであろう.その地域社会の統合の試みも,今のところ未だ力強くはない.したがって,経済的に後進国であり国際経済的に自然資源の提供国の立場にあるペルーが,国家(state)としてとらざるを得ない環境政策の指針は,CONAM以外のところで模索されることになる.しかし,その過程は,環境コーデネーターとしてのCONAMの存在があるだけに,表面に明示的な形ではなかなか出てこないのである. (30)


6. INRENAへの権限集中とその規制行政

第4項ですでに見たように,ペルーの環境政策の出発点は,90年代以降の農業政策の変換に起因するものであった.そのために農業省の組織改革が行われ,その中から新しい機関としてInstituto Nacional de Recursos Naturales-INRENAが,環境行政の中心的存在として登場してくる.INRENAは,もとより農業省に直属しない独立行政法人OPDの1つとして,その限りで行政権限を多くは持たない機関として1993年出発しながら,これと反対に多くの行政権限が付与され,ペルーの中にあってあたかも「環境省」 (31)として振る舞ってきたのだった.1995年頃には早くも,NGOを含めた環境団体の多くから,INRENAのCentralismoへの傾斜を指摘されるようになってきた.CONAMが,オープンで親しみやすい機関として歓迎されたのとは,まさに対照的である.そして,同機関のこのような立場と体質を一番よく代弁する時期が「Josefina Takahashi所長の時代」だといわれている.

INRENAが,政権中枢といかに直接的に深く関わっていたかを示す事例として,INRENA人事部部長が筆者に語ったことを紹介しよう.彼によると,同機関が独立行政法人OPDに組織替えした直後から所長人事の在り方が大きく変わったという.前身のONERNの時代と移行期にあたる初代所長(fig.2を参照)までは,農業省官僚組織の「古き良き時代」の慣習を踏襲して,職人的技術官僚の最後のステップとして所長職が存在したが,第2代所長以降は,外部専門家を大統領府が直接任命する方式に変更されたという.所長の外部招聘とこのような所長による強引な組織運営は,組織内部に多くの人事面での葛藤をもたらしたと,彼は付け加えている.このような状況のもとで,第2代所長の時代が始まる.同所長は,まず手始めに,人事の大幅の刷新を行った.またこの時期,1990年に決定されすでに実行に移されていた「国家による自然環境の保護管理システムSINANPE」の実務とその管理行政を着実に実行し,一方で,ペルー全土の自然資源保護に関する調査と研究を精力的に行っている.その成果は,様々なの法令・行政令に結実し,多くの行政権限をINRENAが獲得することにつながった.資料-Aからも解るように,1997年はINRENAに多くの権限が認められた年にあたり,中でも,「自然保護区法」(Ley de Areas Naturales Protegidas. Ley.no.26834)と「生物多様性法」(Ley sobre la Conservación y Aprovechamiento Sostenible de la Diversidad Biológica.Ley.no26839)が重要であった.このうち「自然保護区法」は,INRENAがSINANPEを運営してきた実績を勘案し,国定自然保護区Areas Natulares Protegidas por el Estado-ANPEを全土にシステマティックに設定し,そこへの立ち入りの許認可と監視のほとんど全ての権限をINRENAに付与したものである.さらに注目すべき点は,保護区への立ち入り制限を有効ならしめるためには許認可・監視についで「取締まり」が不可欠であることから,違反行為を環境犯罪と規定した法律(Ley.no.26561)を梃子にし,以前からあった森林警察Policía Forestalとの連携をINRENAが強めていった点である.

このような地ならし後,1998年10月,Josefina Takahashi SatoがINRENAの第3代所長として政権中枢から送りこまれてくる.彼女は生物学者で, フジモリはその行政手腕を大いにかっていたといわれていた.しかし,彼女の在職期間中は,フジモリの政権3期目のアマゾン政策の指針となるはずであった「新熱帯雨林基本法 2000」の策定と同法に関連した行政権限のINRENAへの集中を除けば,実はそれ以外あまり目立った業績はなかった.ただ,フジモリ政権によって創出されたINRENAが,フジモリ政権2期目に最大限に権限を集中した時代としてJosefina Takahashi所長の時代は象徴的であったし,現実にその官僚的・秘密主義的体質を一番強めた時期でもある.

<fig.2を挿入>
2005 fig2


以下,保護区 ANPEへの立ち入りとそこでの活動に対してINRENAがどのような許認可と監視体制をとっているかを知るために,いくつかの実例を検証しよう.その前に,「自然保護区法」による管理システムを概観すると,ペルーの全土のいくつかの地域を文化環境,自然環境などの観点から7つのゾーンに区分し管理するとしている.そのうちエコシステムがいわば「手つかず」に残っている地域を「厳しく立入りを制限する地域」と指定し,環境保全,環境モニターそして例外的に科学的調査活動,それら以外の一切の立ち入りを禁止するとしている.そして,「厳しく制限する地域」に様々なカテゴリー区分を設定している.この地域はほとんどがペルーアマゾンにあるので,アマゾンに限定して制限が厳しい順にいえば,1.国立自然公園,2.国立保護地区,3.緩衝地区である.これらは,バラバラに設定されているのではなく,国立自然公園を中心にして同心円状に設定されているので,国立自然公園に到達するためには,緩衝地区,国立保護地区の順にこれらの地区を通過していくことになる.

6-a 学術調査の事例
このような制度下で行った我々の学術調査を第1の実例として挙げよう.我々は,2001年8月から9月にかけて,ペルー・ボリビア国境近くのうちペルーアマゾン側(マドレ・デ・ディオス県)に存在するエセエハ族のナティーボ集落(ソネネ村)で環境利用に関する調査を行った (32).その集落は保護区ANPEの中にあるので,当然INRENAの認可を監視を受けることになった.まず,ANPE内での野生動植物標本の「非採集」を条件とした科学的調査の認可申請を行うために以下の書類を自然保護局に提出することを求められた.

1. INRENA書式の申請書
2. 申請料 300 新ソーレス
3. INRENA書式の調査計画書
4. 調査計画の評価・推薦書(ペルー国立大学所属の教授の作成したもの)
5. 調査責任者(申請者)の履歴書
6. 申請者の紹介状(支持・派遣を決めた科学的研究機関発行のもの).さらに外国人の場合,各国大使館領事部発行の人物紹介状
7. 調査に参加協力するペルー籍の科学的研究機関の趣意書(申請者が外国人の場合),
8. ナティーボ集落を訪問する場合,INRENAが認める現地機関発行の訪問のための紹介状コピー
9. 現地協力者リストと各人の身分証コピー
10. INRENA書式の誓約書
提出書類の多さに関しては意見の分かれるところであろう.しかし,要求される紹介状・推薦状から理解できることは,野生動植物標本の「非採集」カテゴリーの調査でもペルー籍の機関の同意と協力が不可欠であり,むしろペルー籍の機関を中心に調査活動を展開すべきだというのが,INRENA側の意図であるということである.もちろん,野生動植物標本の「採集」を行う調査は,外国人には一切認められていないし,標本以外の野生動植物の持ち出しは,環境犯罪に問われることになる.もとより,研究調査目的での立入りは,例外的にしか認可しないことになっており,さらに,外国人にはANPEの野生動植物を触れさせたくないという意図がありありと読みとれるのである.さて,認可申請を行って20日後に採否の結果を受け取ることになっているが,我々は幸運にも,あるいは生物種に対する興味を持っていないと認められたおかげか,2-3回の面接審査と追加書類の提出を行って,認可証を手に入れることができた.しかし,この種の認可を得ることがどれほど難しいことかは,我々の認可番号 (33)が同一カテゴリーの2001年度第1号であったかとからも窺い知れる.

さて,現地のマドレ・デ・ディオス県の県都プエルト・マルドナードに着くと,そこの農業省内にあるINRENA地方事務所を訪問し認可証を提示することになっている.そこで,保護区内にある2ヶ所の監視所を通過する際に呈示する別の認可証の発行を新たに受けることになる.fig.3から解るように,我々は,プエルト・マルドナードを船で出発し,マドレ・デ・ディオス川を下り,国境のヒース川に向かう.町を出てしばらくすると最初のINRENA監視所があり,チェックを受けるが,ここではチェックは比較的簡単なものであった.さらに下って,ヒース川との合流地点に着くと,そこにあるペルー国軍国境警備隊の出入国管理事務所でのチックを受ける.ここでの手続き自身は,INRENAとは関係ないのであるが,旅行目的を確認するためにINRENAの認可証の提示がどうしても必要であった.我々は,さらに進んで国際河川ヒース川を遡上しソネネ村を訪問したが,テントを張っての逗留調査の拠点は,それより上流にあるメシアヘであった.そこから,我々は,ナティーボの伝統的経済を支えるテリトリーを観察するべく,さらに上流のワンカマーヨ地区とボリビアのMadidi国立自然公園 を旅行した.つまり,立ち入りを最も厳しく制限する最上位カテゴリーのBahuaja-Sonene国立自然公園に足を踏み入れたのであった.まず,国立公園の入り口にあるINRENA監視所San Antonioに立ち寄り,許可証を提示し進入許可を得る.この監視所では,観察を終えて国立公園を出る際が大変であった.監視員は,野生動植物の持ち出しがあるかないかをチェックするために,船に積んだ全ての荷物を例外なく開け,丹念に中身を調べたのである.しかし,無事に違反のない旨の報告書を入手し,そこを通過することができた.周辺のナティーボの話によると,この監視所は1990-1991年頃にすでに建てられていたというから,INRENAの成立以前の1990年SINANPEの施行と同時に設置されたことになる.さて,調査を終了して帰途につく際,再びプエルト・マルドナードのINRENA地方事務所を訪ね,2ヶ所の監視所から受け取った報告書を提出することになっている.これで手続きは完了となる.

INRENAによる外部者の科学的調査者の保護区ANPEへの接近の許認可・監視は,いずれの場合もほぼ以上見てきたような事例と同様な形で実施されていると思われる.しかし,より詳しくいえば,科学的調査に対するINRENAの行政処置TUPA-Texto Unico de Procedimientos Administrativosは,2つのカテゴリーに分かれており,それらは「非採集」と「採集」で,それぞれDS.no.049-2000-AG,DS.no.025-2000-AGに根拠を置いている.「非採集」より「採集」の方がより許可を得るのが難しくなっているが,申請者の外国籍,ペルー籍の違いによる対応の違いは,INRENAの自由裁量で行っているように思われる.ペルー籍より外国籍に対してより厳しい対応を行っているのはもちろんである.

6-b マデレーロの事例
つぎに,現地のいわば生活者とINRENAの関係を見ておこう.現地生活者の一群として,プエルト・マルドナードを拠点としている材木伐採業者マデレーロがいる.彼らは,良質の木材を求めて熱帯雨林の奥深く分け入り,平均して50日程度の木材伐採とその搬出の旅に出かける.それほど遠くない 保護区ANPEであるBahuaja-Sonene国立自然公園内に良質の木材が存在することは知っているが,もちろん,彼らはそこには決して近づこうとしない.INRENAの規制の厳格さと罰則の厳しさを知っているからである.そして,遙かにはなれたブラジルとの国境近くを流れるラス・ピエドラス川の中・上流域に主に出かけている.同県では,ここ以外にマデレーロの商業伐採が許可されている地域として,イニャパリを中心とした国境地域(zona 2),イナンバリ川下流域(zona 3)とマルカパタ川下流域(zona 4,5)が存在するが,ラス・ピエドラス川の中・上流域(zona 1)の方が深い原生林が広がり効率的かつ良質の木材が取れるという.したがって,様々な問題を引き起こす 材木伐採業者も,予想に反してINRENAの保護区ANPE行政との接点はあまりない.

しかし,彼らは,INRENAの中でも森林・野生生物局との関係は深い.材木の伐採にあたって,彼らは,申請をプエルト・マルドナード農業省内にあるINRENA森林局に提出する必要がある.申請内容が適法と認められると,マデレーロは国家と材木伐採・搬出に関する,つまり国有財産の取得に関する契約を交わす.実際の作業においても,詳細な森林利用案内(その中にはチェーンソーの使用禁止など使用道具規定も含まれる)を忠実に実行することが要求される.さらに,予告無しの抜き打ち検査が森林警察によってしばしば実施され,違反が見つかれば木材は没収となる.

伐採地の植林について触れると,マデレーロは伐採契約にあったてかなりの伐採料(搬出材木評価額の20%近く)をINRENAを通して国家に支払うことになり,それが植林基金になることになっている.この制度は1970年代からあり,それは旧熱帯雨林基本法の関連法規DS.no.161-77-AGに根拠を置いており,2000年の新TUPA-INRENA(DS.no.049-2000-AG)により修正され追認された.それらの法律によると,支払われた伐採料は,INRENAの保証供託金勘定に振り込まれ,その一部は熱帯雨林の伐採地の再森林化に使われることになっているはずである.しかし,現地の何人かのマデレーロの話によると,彼らが伐採した森林で植林事業が行われたことは1度もないという.もしこれが事実だとすれば,現代ペルーの環境政策にとって,材木伐採による森林減少 (34)などはその掲げ然資源保護の主要な問題ではない,つまり保護する価値のある自然資源は他にあるということではないだろうか.

6-c ナティーボの事例
現地生活者の大きな部分として,広い熱帯雨林に散在して集落を作っているナティーボがいる.彼らの生活を第3の例として見てみよう.ナティーボ集落については,いろいろなタイプがありうるが,経済活動のタイプから大きく3グループに分類できる.第1はアンデスの麓と熱帯雨林の接点に集落を作り,コカ栽培やその代替としてのコーヒー栽培,さらには熱帯産果物などの換金作物生産を手がけるグループである (35).第2のグループは,河川の中流域で狩猟漁労・採集と焼き畑農業を組み合わせて自給自足を原則とした生活を営むグループである.そして第3は,以前第2グループに属していたが,おもに材木伐採業者との確執が生じ河川の上流域に移動し,閉鎖的な自給自足生活を営むグループである.これらの3グループは,それぞれ異なる方向からINRENAと接点を持っているが,今,第2のグループの1つとしてソネネ村を取り上げ,それとINRENAの関係を見てみよう.fig.3から解るように,現在ソネネ村は4つの集落を連合した集合村をなしており,いずれも今日ANPEカテゴリーでの緩衝地区に位置している.ナティーボたちには,緩衝地区内で,河川・湖での漁労,森での狩猟,森でのカスターニャなどの採集活動が制限付きであれ許可されている.しかし,INRENAの監視下では地元のナティーボといえども,国立保護地区,国立自然公園での活動は原則的に認められず,そこでの狩猟採集は厳禁である (36).つまり,このような監視下のもとでは,ソネネ村の環境利用の範囲は,狩猟採集は緩衝地区内で,焼き畑農業は集落のごく周辺で行うことを強制されているのである.しかも,対岸のボリビア領ラ・パス県側でも近年Madidi国立自然公園の規制措置が実施され (37),それは緩いとはいえ,その地区の利用は大きく制限されているのが現状である.

ところが,ソネネ村の村民は,旧来からヒース川(彼らはソネネ川と呼ぶ)の両岸を自由に利用してきているのであった.下流域はSan Pedro-Miraflores村のラインから上流域はワンカマーヨ地区まで,さらに狩猟に出かけるときはワンカマーヨ地区から内陸部へ広がるヒース・パンパまでを彼ら固有のテリトリーとしてきたのである.元来,熱帯雨林に暮らすナティーボたちは,それぞれの固有テリトリーを持ち,それを彼らの自給自足の生活基盤とし,その上に固有の文化的アンデンティティを築いてきた.また,彼らはそれぞれのテリトリーを犯さない程度に散在して集落を形成しているのであり,テリトリーは,彼らにとっていわば森の暮らしの生命線なのだ (38).

これらの事実を無視して,自然が「手つかず」に残っているとの理由から「厳しく立入りを制限する地域」を指定するANPEとそれを強力に実施しているINRENAは,ナティーボの生活さらにいえばその存在を以前と変わらず基本的に無視したものであり,それはある主体的意志を代弁した政策といえよう.事実ソネネ村の固有のテリトリーは,自然公園,保護区,緩衝地区によって寸断され,彼らの生活基盤と伝統文化は大きな危機に直面し始めている.そのいくつかの例を挙げよう.かれらの生活基盤のパターンは既述の第2グループに属しており,タンパク質資源は漁労に全面的に依存し小動物の狩猟で補完する体制をとってきた.それが今日かなり脅かされている1つの証拠として,ソネネ村の子供の体型と栄養状態の悪さを挙げることができると思われる.我々に同行しペルーアマゾンの多くのナティーボ集落を見てきた研究者(森林学)は,セルバでの一般的な栄養状態の悪さを前提した上で,この村周辺でのさらに一層の劣悪さを指摘する.また,自給自足を原則とするとはいえ,彼らは現金収入のための活動を常に必要としている.旧来は森の希少な動植物が現金収入の道であったが,現在はそれらの狩猟・採集が厳禁であるため,残された道はカスターニャだけになっている.彼らは,カスターニャの季節がやってくると,全ての活動を中断してカスターニャ集めに集中する.しかし,それには大きな限界がある.そこで,現在ソネネ村では,若者を中心にしてエコツアーの観光ロッジを誘致する動きがあり,村内は伝統文化への危機感が醸成されて,表面的には大きく揺れ動いている.ここでは,新憲法の「国家はナティーボの文化的アンデンティティを尊重する」という文言(第89条)は,実体的にはほとんど意味を成さない.ナティーボにいわせると,押寄せてくる規制はコステーニョの政策だということになる.もとより,アマゾンについては「手つかず」の自然など存在するはずはないのだが,それを無垢な存在と見ようとすること自体に,ある意志が潜んでいると考えざるを得ないのである.それは,ナティーボ,コステーニョの個々の意志を越えたもので,いわば「外来的なもの」の意志というべきだろう (39).

<fig.3を挿入>
fig 3


以上,環境政策のうちANPEの許認可・監視に関する行政権限が,INRENAに集中している実体を見てきた.ところで,2000年後半フジモリが事実上日本に亡命し,パニャグア臨時政権が樹立され,それ以降トレド政権が誕生するといった政治状況の変化が起きたのであるが,環境行政も,それにあわせて,全体として変化の兆しが見えてきた. ここで注意しなければならないのは,未だ状況は不透明な部分は多いいとはいえ,このような変化の兆しの中で何が変わろうとして,何が不変なまま残ろうとしているのかを識別することである.以下その点を考察していきたい.

まず現象的に目に付くことは,環境行政の中でINRENAが一時代を画した「Josefina Takahashi所長の時代」が,パニャグア臨時政権の樹立によって終焉を迎えたことであろう.彼女は,同年12月をもって解任されることになった.その後,Matías Prieto Celiが所長に就任するが,臨時政権と同様な過渡的なものであった.この所長の代に,同時期の他の全ての省庁・OPDと同様に,INRENAでも行政の透明化と不正職員の告発が実行され,その秘密主義的手法はかなり緩和された.しかし,その組織上のcentralismoはほとんど手が着けられなかったといってよい.INRENAのこれまでの暴走に歯止めをかけ,その権限を相対化する動きは,むしろ,外から始まることになる.まず,環境行政のうち新たな施策とその権限がINRENAからCONAMとその他機関にシフトする傾向が起こり始めている.とりわけ,生物多様性にもとずく資源保護のうちで2000年以降緊急の課題になってきた「遺伝子資源」の保護に関する政策では,その関与はINRENAから他のOPDへ移されつつある.この遺伝子資源保護というテーマについては,INRENAが以前から情報収集をし関連機関との国際的交流を行ってきたにもかかわらず,今のところINRENAにはほとんど権限らしいものを付与されていない.反対に,遺伝子資源保護政策の戦略の立案,広報活動などがCONAMにシフトし,さらに遺伝子資源に関する生物学的専門研究はINIAのプロジェクトに組み込まれようとしている.また,農業省自身が,権限の再掌握に乗り出す動きもある.2002年にトレド政権下で,PROAMAZONIAが,DS.no.017-2002-AG (Crean el Programa para el Desarollo de la Amazonía)によって立ち上げられた.このプログラムはアマゾンの自然資源の利用,エコシステムの保存,資本投資を包括的に計画し,指導していくだめに構想されたものである.もしフジモリ政権下であれば,そのすべてをINRENAに委任すると思われるような行政課題である.しかし,同法は,PROAMAZONIA事務局を農業省本部に置き,農業省系OPDの関与を一切廃して,その活動の全てを農業省の専権事項として執り行うものと規定しているのである.じつは,PROAMAZONIAはその局長人事が二転三転し,今のところ軌道に乗っていないので,その働きを評することはできないが,環境行政全体の中でのINRENAの相対化の役割を果たしていることは間違いなさそうである.以上のように,政権交代によって,ペルー環境政策の行政ダイナミズムが変化し始めているように思われる.それは,INRENA への権限一極集中から権限の分散化の方向であるといえよう.もちろん,この行政ダイナミズムの変化の中で変わらず貫かれているある不変的なものが存在していることを見落とすわけにはいかないだろう.


7. 「生物多様性」政策のゆくえ

ペルーが政権交代に向けて政治的激動を迎えていた2000年から2001年にかけて,環境関連の諸OPDと大学の研究機関で「遺伝子資源」に関する研究が活発化していた.2000年には,このテーマに関するいくつかのワークショップが開催され,翌年はじめにCONAMからそれらの報告書,研究論文が配布された.それらは,「遺伝子資源へのアクセス」の国家管理の法的根拠を体系化する試みであったり,あるいは遺伝子資源取引による「利益分配」のシステムの構築を問題にするなど,いずれも具体的でありかつ熱のこもったものであった.さらに,2001年5-6月には, OPDと大学機関の総数11団体が参画しINRENAを中心にして「遺伝子資源法試案」Propuesta de Reglamento sobre Acceso a los Recursos Genéticosがまとめられ,法制化の準備が進められたのだった.

ペルーで起こったこの動きの一般的背景に,世界的論調が,生物多様性のうち,遺伝子資源の保護や遺伝物質の国際取引へ関心を一時期強めたことがあげられる.もちろん遺伝子資源の保護に向けた国際的議論は,かなり前から俎上にあがっていたのであるから,むしろ遺伝子資源の問題は新たな現実に直面してその比重を増したというべきであろう.もとより,1992年の国連生物多様性条約(CBD)の第15条は遺伝子資源の「アクセスと公正な利益分配」の規定に当てられている.ところが,これはかなり概念的なものであり,内容的に具体性に欠けていたので,それ以降に開催されたCBD 締結国会議(COP)の議論と決議で細部を詰めていくことになったのである.とりわけ,COP2 (Jakarta, 1995),COP3 (Buenos Aires, 1996)の決議は重要であり,現在の議論,つまり遺伝子資源へのアクセスに関して原産地国の「国家主権」,遺伝物質の国際取引に関して原産国の「知的所有権」を認めるといった議論と決議がここでもう出そろっていたのである.ペルーの生物多様性法(1997)は,これらの議論を踏まえて成立したものであり,その第8条は「遺伝子資源」の取り扱いに充てられている.ただし,この法律は,野生動植物と異なり遺伝子資源は全て「国家独占」であるとする規定は盛り込まれているものの,CBDの国内法規という位置づけで国内規制向けに策定されているため,元来遺伝物質の国際取引を視野に入れ得ない瑕疵があったのである.しかし,それはさしあたり問題にはならなかった.

世界的論調を注目する場合,もう1つの側面を見落としてはならない.それは,これらの遺伝子資源についての国際的議論は,先進国と後進国ではその取り組む姿勢にかなりの温度差があったということである.先進国を中心としたこの種の議論では,これ以降,バイオテクノロジーによる遺伝子組換え生物が生物多様性へ及ぼす影響の防止,つまりバイオセーフティーの議論へ重点がシフトしていく傾向があった (40).もちろん,COP5(Nairobi,2000), COP6(Hargue,2002)で再び遺伝物質の国際取引の問題が,その中でも特に「公正な利益分配」問題が取り上げられることになるのだが.一方,ブラジルをはじめとする南米のアマゾンを領有する諸国では,その中心的関心と議論は,現実化しつつある遺伝物質の国際取引への対応と遺伝物質の「盗みだし」の危惧に向けられていた.これらの関心事は,さしあたり予防的危機感に根ざすものであったが,このような事態が一挙に現実化した時に対処できる地域的協力体制も国内的行政システムも存在していないことが,大きな問題であった.これが,自然資源供給国の立場に立つ後進国での当然の感覚であった.

このような事態の中で,アンデス共同体 (CAN) 加盟国は,CBD締結国会議とは一定の距離を置いて,カルタヘナ合意委員会 (41)をもうけて遺伝子資源問題で地域共通のシステム作りを検討し始めた.そして,COP3開催の直前に,アンデス共同体独自の「391号決定」(decisión 391, 1996)を下したのである.その「391号決定」は,もちろん,アマゾンをin situとする遺伝物質の国際取引について加盟国が共同歩調をとること決めたものであった.具体的には,共通した取引システム作り,協調して商業的交渉力を強化すること,オープンで透明な研究開発機関と情報交換システム作りなどが盛り込まれ,これらを実現するために,加盟国は国内法の整備と具体的体制作りの義務を負うとしている.加盟国の1つであるペルーの関係者は,強くこの「決定」を意識していた.そのような折り,ペルー国内でペルー企業と研究機関が様々なNGOを使って「無断で」遺伝物質を採取した事例がいくつか生じ (42),危惧は予防的意味合いを越えて現実味を帯びてきた.新聞もこの遺伝子資源問題を取り上げるようになり,ややセンセイショナルに多国籍製薬会社を「遺伝子の狩猟人」と攻撃するものも現れた (43).このような状況が,2000-2001年のペルーを覆っていた.そうした中で,1997年の生物多様性法の瑕疵を補うために,前述の「遺伝子資源法試案」が,2001年INRENAから提出されたのであった.以下この「試案」の内容をを少し詳しく検討する.

「試案」は,その形式の面でも内容の面でも,ほとんどアンデス共同体の「391号決定」を踏襲したものであった.「試案」の諸提案のうち,2つの点をここでは取り上げる.まず第1点は,遺伝子資源保護行政におけるインディヘナに対する配慮条項である.しかし,それは次のようなコンテキストにおいてである.全ての遺伝子資源は知的所有権物と概念化され,それはin situ国家の主権に帰属し,そのコントロールを受けることを前提にする.そのうえで,戦略的な遺伝子資源の多くが存在している地域住人,つまりインディオのかかる物質にたいするノウハウとその深化そして伝統的利用の権利を認めるというものである.さらに「試案」では,インディオ居住区内で遺伝子資源にアクセスしようとする者は,インディオの行政責任者の同意を必要とするというちょっと些細な配慮条項を追加している.いずれにせよ,インディオの伝統文化に従った遺伝物質の域内での利用は認めるが,そういう物質の価値を決定付ける遺伝子そのものは国家主権に帰属するものであるがゆえに,遺伝物質の域外への持ち出しや無許可の取引を禁止するということである.このロジックは一見ごく当然のように思われるし,今のところあまり問題は先鋭化していないが,しかし問題は2方向に分かれて確実に進行しつつある.1つの方向というのは,2002年すでに動き出していて,それは,遺伝子資源の国家独占からくるナティーボへの制約を排除し,彼らが伝統的に利用している戦略的遺伝子資源を含む動植物・野菜を,集合的知的所有権あるいは文化的財産権というカテゴリーで消費者権利として守ろうとするものである.そのための法案は,環境関連とは異なる団体代表で構成たれた委員会のもとで策定され,即座に「インディヘナ集合的知的所有権保護法」として公布されたのであった (44).同保護法によれば,ナティーボが彼ら固有の財産と考える生物資源をInstituto Nacional de la Defensa de la Competencia y de la Propiedad Intelectual-INDECOPIに自ら登録し,もしその権利が認められると,それらに対する彼らの知的所有権が発生し,同時に自由な利用と非商業的流通が保護されることになる.しかしまだ,実体はシステムが動き出したばかりで確認されていない.もう1つの方向での問題は,将来にわたることであるが,遺伝子資源保護に向けての国内政策が保護区ANPE行政と結びつく事態のことである.遺伝物質の無許可の海外流出がもし頻繁に起こるとなると,保護区ANPEは広げられるであろうしINRENAによる規制管理はさらに厳しさを増すであろう.そういう事態になると,インディオの生活圏であるテリトリーと無形の国家財産の保護が鋭く対立することは避けられないであろう.

さて「試案」提案の第2の注目点は,「試案」がペルーの情勢に適合した制度的枠組みをかなり具体的に提案していることである.まず「遺伝子資源諮問国民評議会」Consejo Nacional Consultivo de Recursos Genéticos-CONARGEの設立提案である.その提案によれば,この機関は,政府,OPD,大学,インディオ団体の総勢9団体からの代表で構成され,その機能は,遺伝子資源に関する情報収集とその分析,さらに遺伝子資源関連の政策提言と法案作成をおこなうとしている.これは,一般の環境保護とは区別されたものであり,遺伝子資源保護に特化され,機関横断的なセンターの創設提案であろう.したがって,これは,ペルーの行政担当者に遺伝子資源問題が特別重要なものとして映っていた証であろう.そして「試案」は,ペルーで遺伝子資源行政を担当すべきオーソリティーとして,INRENA, INIAそして漁業省を挙げている.もう1つの制度的枠組みとして,「遺伝子資源保護・研究・開発基金」Fondo de Cnservación, Investigación y Desarrollo de Recursos Genéticos-FONARGEの創立の提案している.この基金の運用資金は国家財政に依存せず,国内外の個人または協力団体からの寄付・遺産贈与・助成金,さらにINRENAが徴収する違反行為に対する罰金で賄うというプランになっている.このような事情から,基金本部はINRENAが兼ねることとしている.ところで,この「遺伝子資源法試案」は,実は法案化が見送られてしまった.それにはいろいろな理由があったであろう.2001年の政権交代という政治状況が影響したかも知れないし,提案する行政内容がINRENAに傾斜しすぎていてトレド政権・議会から敬遠されたのかもしれない.しかし,実体を明か情報は伝わってこない.そうであるにもかかわらず,この「試案」が提起しようしたものは,世界動向とりわけ自然資源供給国というペルーの国際的立場を有効ならしめる国家戦略に沿ったものであったことは間違いない.したがって,近い将来,遺伝子資源法案はいずれかの機関によって,様々な変更を伴って再提案され立法化されることは避けられないと思われる.


おわりに

最後に,この「遺伝子資源」問題が,ペルーの広義の「自然環境保護」政策の中でどのように位置付けられるかを簡単にまとめておこう.もともと,自然環境を保護するための諸政策は,既に述べてきたように,フジモリ政権の遙か以前から実施されてきた.そこには自然保護とは異なる意図も含まれていたのであるが,現実に,今ある国立自然公園の大半は,1960,1970年代にその認定を受けているという事実には,目を見張るものがある.さらに,このような南米特有の優れた自然をその周辺地域も含めて国家によって保護管理するための制度SINANPEが導入されたのは,かれの政権誕生の数ヶ月前のことであった.

フジモリ政権10年の環境政策は,一面で,これらの諸制度をふまえてその延長線上に展開されてきたといえるだろう.しかし,フジモリ政権の環境政策を以前のそれから際立たせる独自な特徴は,その進め方が強引でかつ他の南米諸国に比べて徹底したものであった点を別にして,2点ある.第1点は,自然資源保護と資源開発の展開を区別してその展開順序を付けたこと,そして第2点は,その政策目的の独自性である.まず第1点についていえば,アラン・ガルシアから政権を引き継いだフジモリ政権にとって,資源開発を先送りにして自然資源保護から始めざるを得ない十分な理由があった.なぜならば資源開発のための外資がすぐには呼び込めない状況に立たされていたからである.しかし,同時にそこには第2点目の自然資源保護を徹底させた独自な政策目的が関係していた.そこで第2点目の特徴についてであるが,まずその前に,フジモリ以前の環境政策の目的を簡単にいってしまえば,国民生活の健全化と国土の保全であるといってよいであろう.もちろん,自然資源こそ国家の財産という考えはラテンアメリカ共通のものとして流布していたことは間違いないが,それがすぐに環境政策と結びついたわけではない.ところが,フジモリ政権は環境政策は農業政策の新たな重要課題と位置づけたうえで,自然資源イコール国家財産というシェーマを優先させ,それを囲い込み保護する事を環境政策の最重要課題としたのであった.自然資源には,石油・天然ガスをはじめとする鉱物資源,水産資源,野生生物資源と多岐にわたるが,彼は野生生物資源の可能性に賭けた戦略方針を採用したものと思われる.つまり,野生生物資源は国家ビジネスになるということであり,商取引に入る前にビジネス資源は厳しく保護管理されなければならないのである.「生物多様性戦略」とは,このことを指し示しているのである.しかも,この戦略は,広大な熱帯雨林を擁した中南米諸国が置かれている世界経済上の共通した国際的立場を十分考慮に入れたのものであり,フジモリ政権はこのいわば「外来的な要請」を主体的に受け止めたのであり,それを国家(state)戦略としたのであった.その戦略を徹底させるための行政的な先兵が,すでに見てきたようにINRENAに他ならなかった.またはっきりしていることは,生物多様性戦略は,政権と行政組織の移行ダイナミズムを超えた国家の長期的戦略の地位を獲得しているということである.トレド政権以降も簡単にはこの戦略を覆し,そこから離脱することはできないであろう.他方,同じフジモリ政権下で形成されたCONAMの活動は,「生物多様性戦略」とはほとんど無関係であり,やや先進国型環境論に傾斜しつつ国内の諸コミュニティーの連合・統合を目指してきたのであった.いわば「内から外へ」の開かれた方向性を持つものである.アマゾン地域では,この全く異質の2つの環境行政が展開され,その結節点につねにナティーボが位置しているということができる.

さて,2000年以降の遺伝子資源問題は上記の国家戦略の延長上に展開されることになるだろう.遺伝子が無形資産であるだけに,そこでは,国家戦略の意図がますます透けて見えるようになるだろうと思われる.環境論でしばしば取り上げられる「自然資源の保護」と「自然資源の持続可能な利用」とは,対立的ではないまでも,もとよりある齟齬を含んでいるはずである.今,「自然資源の持続可能な利用」を拡大解釈して,ナティーボ集落などに見られる生物多様性に基礎をおいた自給自足的生活スタイルのことであると考えるならば,国家戦略が「野生生物資源の保護」から「遺伝子資源」に傾斜していけばいくほど,両者の齟齬はますますひろがっていくと懸念されるのである.

翻って環境論の原点に立とう.自然環境への畏敬,自然環境の恩恵,そしてさらに進んで広域の自然環境に紡ぎ出されるコミュニティー間の絆等々を語ることは,国際情勢のリアリズムに強制された国家戦略,国家ビジネスなどとは全く別次元のことである.そういう意味で,もしCONAMがその開かれた機関体質を維持し,官僚的な上からの統合傾向を廃してinterculturalidadの操作性により多く立脚すれば,CONAMは,環境論の原点に立つ大きな可能性を秘めているといえるだろう.個々の人間が自然環境と向かい合い生きていくためには,先進国,後進国を問わず,等身大の世界を見つめる眼とさらにはポエジーが必要なのだから.


<資料-A ,資料-B>を挿入
A
B








1 本稿は,1999年から2002年3月まで断続的に実施したペルーのリマとプエルト・マルドナードでの調査を基にしている.2001年8-9月のアマゾンインディオ集落での調査にはトヨタ財団のプロジエクト「ラテンアメリカにおける民主的な政治社会の構築に向けた制度的基盤に関する調査研究」(代表者:山田睦男)からの援助を受けた.また,同調査は,Centro de Investigación, Educación y Desarrollo-CIEDの協力を得てInstituto Nacional de Recursos Naturales-INRENAの自然保護区での学術調査許可の下で実施された.

2 この最近の文献として,コスタ・シェーラを扱った[Claverías Huerse 1995, 1999, 2000],セーハに関しては[Morales Males and Schjellerup 1997],セルバを扱った[Benavides y Smith 2000] ,[Soria 2001, 2002a, 2002b, 2002c, 2003]をさしあたり挙げることができる.

3 たとえば最近の例として,ヨハネスブルグ国連環境会議「世界サミット」に向けてペルーの独立行政法人の1つであるCONAMが作成した報告書 “Informe del Perú para Cumbre de Johannesburgo 2002” [Consejo Nacional del Ambiente 2002]を挙げることができる.
4 木村秀雄は論文「リスク処理・相互扶助・歴史変化—Amarete生産システム」[木村 1988]で,この点を鋭く指摘している.

5 近年,シェーラ・セルバの両方にとっての共通表象である「水」をinterculturalidadあるいはtransculturalidadという概念をつかって,両地域のサブシステムとして捉え直そうとする試みが提出されている.たとえば[Claverás 2002].その際に注意が必要である点は,分析者の操作概念と当事者世界の内部に埋め込まれているロジックを混同すべきではないということである.Interculturalidadとは,まさに分析者の操作概念に他ならないのであって,そのようなベクトルがシェーラ・セルバの個々の世界に内在していると考えるのは早計であろう.しかしまた,シェーラ・セルバの固有文化は,相互の接点を持たないと初めから断じてしまうのも一面的すぎる.このような点を十分考慮に入れさえすれば,interculturalidad という操作概念は大きな有効性をもっているといえるだろう.

6 [フジモリ1999]

7 リオ・デ・ジャネイロ国連環境会議(1992)での,グローバルな環境問題の論点整理は,先進国モデル,後進国モデルの両方をカバーしていて,ここでの整理に役立った.一方,「環境基本計画」[環境省 2000]などにみられる日本における議論は,多分に先進国型モデルのバイアスがかかったまま環境問題一般を論じていると感じられた

8 ブラジルの20世紀前半から始まる系統的なアマゾン開発に関しては,[西沢1992]に詳しい.また,1970年代から本格的な展開を開始したブラジルの環境保護行政の詳細については,[小池1997]を参照.

9 ペルー農地改革は,軍事政権下で強力に推進されたことは確かであるが,コスタ・シェーラの全地域にわたる行政の遂行には相当の期間を要した.たとえばシェーラでの農村改革は,軍事政権時代のみならず,その後の民政移管後の諸政権に受け継がれることになった.特に高地アンデスにある牧民集落では,行政処理スピードは遅く,改革の後半部分にあたる農民への土地の有償供与は2000年に入っても継続処理されていた.高地アンデスでの農地改革の遅れの背景については,[Kobayashi 1995],[Kobayashi 2000]を参照のこと.また現代では,第4項で詳しく述べるように,農業省内の農地改革担当部局は,1992年の同省の全面改組によって廃止されたので,継続案件は農業省内の新しい1部局PETT (Proyecto Especial de Titulación de Tierras y Catastro Rural)で処理されている.

10 データはペルー国家警察のウェブ•サイト: http://www.pnp.gob.pe (2002年10月)によっている.

11 ナティーボ集落を主権国家に帰属させることは簡単に遂行できるものではない.その主な理由に以下のようなものがある.まず純粋に狩猟採集のみで生活する集落は,森を異動する民であり定着生活になじんでいない.また,過去に迫害を受けた記憶,近接した集落との角逐の記憶を背負ったナティーボのあるグループは,自発的に外部世界との接触を断つ傾向を持つ.これらのナティーボ集落に国家への帰属を勧める努力が,今日でも不断に行われている.セルバを擁する地方の農業省PETT部局がその任に当たっているが,彼らは,アマゾンのナティーボ集落を一般に「未接触集落」Comunidad Nativa Incontactada,「既接触集落」Comunidad Nativa Contactadaの2つのグループに分類しているのが印象的である.

12 たとえば [Benavides y Smith 2000],[Soria 2002c].

13 Sustainableという言葉は,1992年の国連環境会議のテーマになり,その後「持続可能性」いうタームで環境問題を論ずるときのキー概念になったことは周知の通りである.この概念の最初の提案者は,1987年に提出された国連World Commission on Environment and Development - WCED報告書[World Commission on Environment and Development 1987],通称「プルントラント報告」に求めることができる.

14 80年代,90年初めの環境問題をめぐる国連とラテンアメリカ諸国の動き,そしてそこでなされた諸提案について[水野 1997]が詳しい.水野論文によると,この時期ラテンアメリカ諸国が行った主だった報告・提案として次のようなものが挙げられる.1990年8月ラテンアメリカ・カリブ開発環境委員会が提出した報告書『われら自身のアジェンダ』Nuestra Propia Agenda,1991年3月国連ラテンアメリカ・カリブ経済委員会-ECLACがメキシコ市で採択した「環境と開発に関するトラテロルコ綱領」Plataforma de Tlatelolco sobre Medio Ambiente y Desarrollo, さらに1992年3月アマゾン開発環境委員会が発表した報告書『神話なきアマゾン』Desarrollo Sostenible de la Amazonía: de los mitos a nuestra propia verdadなどである.

15 国連環境会議は,20年ごとの開催が暗黙の了解となっており,中間の10年目にも節目の国際会議が開かれる.つまり1982年にナイロビ会議,2002年にはヨハネスブルグ会議(「世界サミット」)が開かれた.両会議とも組織形態は異なるが,ともに国連環境計画-UNEPが組織したものである.

16 [United Nations 1999] pp.7-11に拠っている.

17 その後「気象変動枠組み条約-FCCC」と「生物多様性条約-CBD」の締結国は,それぞれ別の事務局を設けることになり,それぞれの事務局が推進母体となって,条約の細部を検討し条約実現に向けて諸決定を下す締結国会議Conference of the Parties-COPを定期的に開催することになった.FCCC事務局はドイツのボンに,また,CBD事務局はカナダのモントリオールに設置されている.

18 「気象変動枠組み条約」のペルーの批准に関しする法的文書は入手できなかったが,国連環境計画-UNEPのデータによると,ペルーは07.06.1993にこれを批准している.

19 1979年憲法の第2部第8章「カンペシーノとナティーボ集落」は,1993年憲法では第2部第6章「農業システムならびにカンペシーノとナティーボ集落」(第88−89条)に移されている.両者で内容の大きな変化はないが,農地所有に関して1993年憲法はその許容範囲を広げている.

20 ここに述べたOPD以外に,環境関連ではないが,CONASA (Consejo Nacional de Camélidos Sudamericanos) が同時に創設された.

21 1992年のDS.057-92-AG, DS.058-92-AGは,1998年3月の組織と機能規則DS.006-98-AGによって置き換えられた.

22 この部局は,PETT関連法が公布された時,すでに機能を停止し事実上廃止されていた.

23 1990年代でも農業生産力をいかに上昇させるかというテーマは,もちろん中心的テーマであり続けた.しかし,フジモリ政権のこの点についての,少なくとも政権1期目の基本姿勢は,公的指導よりはむしろ農民の創意と工夫による自主的努力と外国からの技術協力の活用であったと考えられる.

24 この国連CBD政府間委員会は,現実には同年10月11-15日ジュネーブで開催された.

25 同プログラムの詳しい研究報告は,1999年に冊子[Consejo Nacional del Ambiente-CONAM 1999a]で刊行された.またトレド政権になって,MEGAの見直しと改正が始まっており,より包括的なSistema Nacional de Gestión Ambiental-SNGAによる再編を目指す法案[CONAM 2003]が作成されたが,CONAMの基本的性格にはなんら変更が加えられていないようである.

26 この組織は,当初Comisión Tecnica Multisectrial-CTMと呼ばれていたが,現在ではCATと改められている.

27 たとえば[CONAM 1999c],

28 CONAMのウェブ・サイト:http://www.conam.gob.pe/のPolítica Ambiental: el Qué, el Cómo y el Quién(2002年10月)に拠る.

29 ここではsocioeconomíaと表現されているが,economía humanaと同義であると受け取り「人間の経済」と訳した

30 政府機関とは別に,議会の立場から環境問題をモニターし法案形成に資するための常設委員会として「環境・エコロジー・アマゾン委員会」がある.しかしこの委員会は,当然のことであるが,議会での政党勢力の変動がダイレクトに反映されるもので,一貫した理念が貫かれているとは言い難い.また,2001年後半,閣僚評議会(PCM)内に「アンデス・アマゾン民族文化委員会」(Comisión Nacional de Pueblos Andinos y Amazónicos)が設置された.その設立趣旨によれば,国内の諸民族文化の保護と経済開発を調整するものであるが,そこではいずれ環境問題が俎上にのぼるものと思われる

31 ペルーには現在までは「環境省」は存在しない,旧来環境関連の事案は,農業・林業・漁業関連の懸案として,農業省と漁業省が取り扱ってきた.

32 このテーマ基づく報告は別稿を準備中である.

33 No.01-S/C-2001-INRENA-DGANP

34 NRENA資料によると,確かにこの種の森林減少は1990年代に入って相対的に減ってきてはいる.

35 このグループの中には,場所によってはケチュア・アイマラ族の山の民の出稼ぎ村も含まれる場合がある.

36 ナティーボによるANPE内での採集活動に対するINRENA 規制への反対は根強い.彼らの森での採集活動の目的は生活野菜類・根菜類の収集または現金収入の手段としてのカスターニャの実集めにのみあるのではなく,伝統医療に供する薬草類・樹皮,幻覚剤植物,さらには伝統的工芸に適する樹木の採集などに及び,採集は自給自足生活を支える重要部分を構成すると同時に広い森林領域を必要とする点が重要である.2002年になって,INRENAを通さずに別のシステムを構築して,彼らの伝統的生活に必要不可欠なこの植物採集を「個人財産」保護の視点から守ろうとする運動と法制化が進んだ.後述する「インディヘナ集合的知的所有権保護法」(Ley.no.27811,2002)がそれである.

37 Madidi国立自然公園などのボリビア国定自然保護区に関する行政は,Ley de Vida Silvestre, Parques Nacionales, Caza y Pesca (DL. no. 12301, 14.03.1975), Ley Forestal (Ley de 12 de julio de 1996)などの法律を根拠にしていると思われる.その執行機関としてConsejos de Administración de las Areas Protegidasが,2000年にDecreto de creación de los Consejos de Administración de las Areas Protegidas (Decrato Supremo no.25925, 10.06.2000)によって設立された.ただし,この執行機関はペルーの中央集権的機関とは異なり,地方ごとの評議会であって,そのメンバーは地方政府と農民・インディヘナの代表半々で構成されるなど地方分権的である.また,地元ボリビア人の話しでは,各評議会は,財政的基盤が弱く外国の環境援助団体からの資金援助で運営されているらしい.したがって,公園への立ち入りの監視・取り締まりといった規制措置はその実を挙げているようには現地で見受けられなかったが,ナティーボには,精神的圧迫を十分与えていた.

38 ソネネ村で語り継がれている口頭伝承にこのテリトリーのあり様が語られている様である.

39 プエルト・マルドナードに拠点を置くNGOの間で,INRENAに対するスタンスは大きく分かれている.ある米国系国際NGOは,国立自然公園の自然環境は,INRENAの努力でよく守られているとし,環境保護の問題は緩衝地区での不徹底さにあると考えている.この態度は,個々のNGOの考えというよりは,アメリカ合衆国が後進資源国へ突きつける要求を直接的に代弁していて解り易い.一方,ナティーボ系NGOは,INRENAはインディオの伝統的な生活を脅かしているとして現行の環境政策に基本的に反対すると同時に,ペルーの国家主権から離れようとするナティーボの「孤立主義」を支持する態度も示している[FENAMAD 2001].しかし,このNGO団体は,今のところまだ最終的な対応を打ち出せないでいる.現地で我々が考えたことは,周囲の人間の意見よりもナティーボ自らが自己の生活と文化を防衛する力を磨くことこそ優先されるべきであり,その際アンデス・インディオが元来持っているプラグマチズム(「選択的透過性」になぞらえることができる)が参考になるかも知れないということであった.それは,ナティーボの哲学に反するかも知れないが,どこかでアンデス文明との折り合いをつけ接点を持つ必要があるのではないか,なぜならば彼らナティーボへの侵略は過去にあったし現在もある,さらに将来でもあり続けるだろうからである.

40 “biosafety” あるいは”bioseguridad”というタームはスペイン語圏では成熟していず”seguridad de la biotecnología”と表現される.これをテーマとした国際的取決めは,CBD締結国間で2000年始め合意されたカルタヘナ・プロトコールと呼ばれる.もちろん,ペルーもいち早くこれに対応して国内法Ley.no.27104(資料-B参照)を整備し,遺伝子改変生物の情報収集と監視機関としてCONAMを,研究機関としてINIA を指定した.しかし,ペルーでは肝心の遺伝子改変生物による環境インパクトそのものが内生的にもあるいは輸入物質としても存在せず,これは行政的関心事に発展していない.

41 この時期のカルタヘナ会議には2つあって,混乱をまねきやすい.1つは,ここで述べたアンデス共同体のカルタヘナ合意委員会のことであり,1996年7月2日カルタヘナ合意は決定された.もう1つは,CBD締結国会議のことであり,バイオセーフティーに関する規制を目指して1999年カルタヘナでその会議は開かれた.その結果は2000年1月になってカルタヘナ・プロトコールとして採択されることになった.

42 この事例については,CONAMが2001年に配布した報告書のうち,[CONAM.2001a]に詳しい.

43 [Tiempo del Mundo 2001]にこの問題に関する特集が組まれた.

44 法案は,2002年6月”Propuesta de Régimen de Protección de los Conocimientos Colectivos de los Pueblos y Comunidades Indígenas Vinculados a los Recursos Biológicos”と題して同名の委員会から提起され,同年8月ほとんど変更を加えられずにLey.no.27811として公布された.資料-Bを参照.







参考文献

Benavides, Margarita y Smith, Richard Chase
 2000 El bien común y la gestión sostenible de la biodiversidad amazónica: la geomática aplicada a los territorios indígenas. Colección de ponencias para Seminario Permanente de Investigación Agraria SEPIA:El Problema agrario en debate VIII Lima:SEPIA pp.545-578
Caillaux Zazzali, Jorge y Muller, Manuel Ruiz
 1999 Acceso a recursos genéticos: Propuestas e instrumentos jurídicos. Lima:Sociedad Peruana de Derecho Ambiental-SPDA
Chavarría, María C.
 1999 El mundo del agua en la tradición oral Ese Eja. Godenzzi, Juan Carlos ed. Tradición Oral Andina y Amazónica: Métodos de análisis e interpretación de textos. Cusco: CBC-Centro de Estudios Regionales Andinos “Bartolomé de Las Casas” pp.17-46
Chavarría, María C. y García Altamirano, Alfredo
 1993 Estudio Socio-Económico Sustentario para la ampliación Territorial de la Comunidad Nativa de Infierno. Puerto Maldonado:Centro Eori
Claverías Huerse, Ricardo
 1995 Desarrollo sostenible en las comunidades campesinas: Metodología para el análisis y la sistematización. La Paz:Plural Editores
 1999 Agroecología: Evaluación de impacto y desarrollo sostenible. Lima:Centro de Investigación, Educación y Desarrollo-CIED
 2000 Cultura y sostenibilidad de los sistemas de producción de los pastores en los Andes. Flores Ochoa, Jorge A. y Kobayashi, Yoshiki ed. Pastoreo Altoandino: Realidad, sacralidad y posibilidades. La Paz:Plural Editores pp.57-83
 2002 Género e interculturalidad en los proyectos de riego: metodología para la sistematización. Lima: Centro de Investigación, Educación y Desarrollo-CIED
Consejo Nacional del Ambiente-CONAM
 1999a MEGA-Marco Estructural de Gestión Ambiental. Lima:COMAN y Banco Interamericano de Desarrollo.
 1999b Comisión Ambiental Regional Madre de Dios: Plan de Acción Ambiental. Lima: CONAM y PNUD
 1999c Ecodiálogo 99: Compromisos para el Desarrollo Sostenible. Lima:CONAM y Proyecto SENREM
 2001a Aportes a la Estrategia Nacional de Diversidad Biológica: Recursos Genéticos y Capacidades (pre-publicación). Lima: CONAM
 2001b Fortalecimiento de las Capacidades Nacionales en Materia de Acceso a Recursos Genéticos (pre-publicación). Lima: CONAM
 2002 Informe del Perú para Cumbre de Johannesburgo 2002. Lima: CONAM
 2003 Texto Sustitutorio: Ley Marco del Sistema Nacional de Gestión Ambiental.(pre-publicación) Lima:CONAM
Conservación Internacional
 1999a Complejidad y Fragilidad: la conservación de la biodiversidad y la exploración petrolera en Tambopata-Candamo, Perú. Lima:CI-Peru
 1999b Zona Reservada de Tambopata-Candamo: Madre de Dios-Puno, Perú. Lima:CI-Perú
Degregori, Carlos Iván
 2002 Identidad étnica, movimientos sociales y participación en el Perú. [Yamada 2002] pp.161-178
Federación Nativa del Río Madre de Dios y Afluentes-FENAMAD
 2001 Poblaciones Indígenas en Situación de Aislamiento Voluntario del Río Las Piedras. Edición Especial de Boletín Informativo. Puerto Mardonado:FENAMAD pp.5-22
フジモリ,アルベルト
 1999 「私の履歴書 アルベルト・フジモリ 29 国民の幸福実現の時」『日本経済新聞』(6月30日)
Instituto Nacional de Estadística e Informática-INEI
 1993 Perú: I Censo de Comunidades Indígenas de la Amazonía. Colección Comunidades Nativas. Lima: Dirección Nacional de Estadísticas Regionales y Locales-INEI
 2000 Perú: Estadísticas del Medio Ambiente 2000. Lima: INEI
Instituto Nacional de Recursos Naturales-INRENA
 2001 Propuesta de Reglamento sobre Acceso a loa Recursos Genéticos (pre-publicación). Lima: INRENA
環境省
 2001 『環境基本計画—環境の世紀への道しるべー』ぎょうせい
木村秀雄
 1988 『リスク処理・相互扶助・歴史変化—Amarete生産システム』IESR (24)亜細亜大学経済社会研究所
 1996 『響きあう神話—現代アマゾニアの物語世界』 世界思想社
 1997 『水の国の歌』伊谷純一郎・大塚柳太郎編 熱帯林の世界7.東京大学出版会
Kobayashi, Yoshiki
 1995 Relaciones Ecológicas y Históricas entre la Costa y la Sierra: Un Caso de la Comunidad Pastoril Aymara en el Perú Meridional. 『政経論叢』(国士舘大学)(92) 93-114
 2000 Origen de los pastores altoandinos: un caso de Pasto Grande, una comunidad puramente pecuaria, Puno-Moquegua, Perú. Flores Ochoa, Jorge A. y Kobayashi, Yoshiki ed. Pastoreo Altoandino: Realidad, sacralidad y posibilidades. La Paz:Plural Editores pp.15-55
小池洋一
 1997 「ブラジル」[水野 1997] 231-253
水野一・西沢利栄(編)
 1997 『ラテンアメリカの環境と開発』ラテンアメリカ・シリーズ7新評論
水野一
 1997 「地球環境問題への対応と持続可能な開発戦略の模索」[水野 1997] 143-160
Morales Males, Pablo and Schjellerup, Inge
 1997 The people and their culture. Centre for Research on the Cultural and Biological Diversity of Andean Rainforests-DIVA ed. Oyacachi: people and biodiversity. DIVA Technical Report no.2 Denmark:DIVA pp.25-57
Muller, Manuel Ruiz
 2002 Protección sui generis de conocimiento indígenas en la Amazonía. Lima:Sociedad Peruana de Derecho Ambiental-SPDA
Murra, John V.
 1972 El Control Vertical de un Máximo de Pisos Ecológicos en la Economía de las Sociedades Andinas. Murra, John V. Formaciones económicas y políticas del mundo andino. Lima:Instituto de Estudios Peruanos pp.59-115
 1980 The Economic Organization of the Inka State. Greenwich:JAI Press
西沢利栄・小池洋一
 1992 『アマゾン 生態と開発』岩波書店
Norgaard, Richard B.
 1994 Development Betrayed: the end of progress and coevolutionary revisioning of the future. London and New York:Rourtledge
Sociedad Peruana de Derecho Ambiental-SPDA y Instituto Nacional de Recursos Naturales-INRENA
 2002 Compendio de legislación de áreas naturales protegidas. Lima:Sociedad Peruana de Derecho Ambiental-SPDA
Rodríguez Echandi, Carlos Manuel, Asebey, Edgar J. y Artuso, Anthony
 1996 Problemas legales: derechos de propiedad intelectual y contratos. Biodiversidad, Biotecnología y Desarrollo Sostenible en Salud y Agricultura: Conexiones emergentes. Washington: Organización Panamericana de la Salud pp.197-226
Soria, Carlos
 2001 Desarrollos de política ambiental en Chile, Ecuador y Perú. Foy, Pierre ed. Derecho y Ambiente. Nuevas estimativas y proyecciones, Lima:Pontificia Universidad Católica del Perú pp.
 2002a Lecciones de Política Ambiental en Ecuador y Perú en los 1990s: Petroleras, áreas naturales protegidas y pueblos indígenas en la Amazonía. Revista del Taller de Derecho (Pontificia Universidad Católica del Perú.) 1(1) pp.20-60
 2002b Aportes para el Análisis de la Normatividad para el Desarrollo Sostenible de la Amazonía en la Década Fujimori. Desarrollo Sostenible y Descentralizado de la Amazonía Peruana. I Encuentro Macro-regional de Organizaciones Indígenas y Campesinas, Lima:Coordinadora Agroforestal Indígena y Campesina del Perú, Foro Ecológico, Red Perú de Iniciativas de Concertación para el Desarrollo Local y USAID. pp.41-62
 2002c Los Pueblos Indígenas Amazónicos Peruanos en busca del desarrollo sostenido. La ponencia presentada en la sesión del Coloquio Internacional de Derecho Ambiental, organizado por la Universidad de Guadalajara-México del 11 al 13 de septiembre de 2002.
 2003 ¿ADIOS A LOS BOSQUES AMAZÓNICOS?: La ecología política de implementar la nueva Ley Forestal en el Perú. La ponencia presentada en la reunión 2003 de la Latin American Studies Association - LASA, Dallas, Texas, Marzo 27-29 2003
Tiempo del Mundo (periódico)
 2001 Investigación Especial: los Indígenas están siendo Víctimas de los Multinacionales Farmacéuticas – Cazadores de Genes. Tiempo del Mundo (23 de agosto de 2001) pp.B24-B27
United Nations
 1999 Earth Summit Agenda 21: the United Nations programme of action from Rio. (reprint) Geneva:United Nations.
Wahl, Lissie
 1998 Alucinaciones justificatorias: la misiones de Madre de Dios y la consolidación del Estado-nación peruano. Pilar García Jordán ed. Fronteras, Colonización y Mano de Obra Indígena Amazonía Andina (siglos XIX-XX): La construcción del espacio socio-económico amazónico en Ecuador, Perú y Bolivia (1792-1948). Lima:Pntificia Universidad Católica del Perú-Universidad de Barcelona pp.337-397
World Commission on Environment and Development-WCED
 1987 Our Common Futue. Oxford and New York:Oxford University Press. 1987 World Commission on Environment and Development『地球の未来を守るために』大木佐武郎監修 環境庁国際環境問題研究会訳 福武書店.
Yamada, Mutsuo y Degregori, Carlos Iván ed.
 2002 Estados nacionales, etnicidad y democracia en América Latina. JCAS Symposium Series 15. Osaka:The Japan Center for Area Studies National Museum of Ethnology








 2013_11_05




05  « 2017_03 »  03

SUN MON TUE WED THU FRI SAT
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31 -

カレンダー

05 | 2017/03 | 03
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31 -

リンク 2

最新コメント

全記事表示リンク

プロフィール

KONYA FUHAKU

Author:KONYA FUHAKU
Me llamo Yoshiki Kobayashi. Soy un antropólogo japonés que se radica en la Ciudad de Tokio-Japón. Aquí aprovecho otro nombre Kenya Fuhaku (紺屋風伯), el apellido de cual, “Kenya”, he sacado desde el tradicional, hace muchos años utilizado para llamar a mi familia. La especialidad se encuentra en la antropología e historia andina, que abarca tanto la zona altoandina como la amazónica.
Recién tengo tanto interés en las cosas en torno a la minería de uranio y la advertencia de su peligro desde la antigüedad.

フリーエリア

検索フォーム

QRコード

QR

Web page translation




PAGE
TOP.